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京狩野と江戸狩野について東京美術の本に基づいて書いてみる

おことわり(2019/1/16)

下書きのままずーっと放置していた記事を公開します。

では本編どうぞ

狩野山楽・山雪展を観てから狩野派に盛り上がっている @riocampos です。
京都国立博物館のショップでも販売していましたが、東京美術から狩野派関連で2種類の本が出版されています。簡単に言えば京狩野と江戸狩野です。これらの本に基づいて、狩野派の画家について紹介します。

もっと知りたい狩野永徳と京狩野 (アート・ビギナーズ・コレクション)

もっと知りたい狩野永徳と京狩野 (アート・ビギナーズ・コレクション)

狩野派で最も有名な永徳。この本はその永徳の大画様式を中心に据えて書かれています。
狩野派初代の正信、狩野派を確立した元信、永徳の父としてしてしか目立たない松栄(でも小説「等伯」では良い人として描かれてましたね)、など先代についての記載もあります。
永徳については、まず若い頃の細画のことから。代表作として洛中洛外図屏風が挙げられています。
そして大画について。代表作としてはやはり唐獅子図屏風。
多忙のために亡くなったと言われる永徳。晩年の檜図屏風には伸びやかさに欠けると作者は評価しています。
少し驚いたのは、この檜図屏風の作者が弟子の山楽であるとの説が示されている点。今回の山楽・山雪展で初っ端に展示されている松鷹図襖には「檜図屏風の影響が」云々とあったので、逆に同一作者であるならば同様になって当然とも考えられます。とはいえ構図などは永徳が指定したのでは、と思いました。
永徳の時代、そしてそれ以降の展開についても書かれています。
まず同時代における大画様式の影響。長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔、曾我直庵など。
狩野派内では、8歳年下の弟の宗秀、その息子で風俗画を描いた甚之丞、34歳年下と大きく離れた弟で江戸への先鋒となった長信、嫡男で大画ではなく細画を描き「下手右京」と叩かれた光信、次男で江戸狩野へと繋がる孝信が挙げられています。画法において孝信は、父と兄と更に長谷川派の「いいとこ取り」が出来たようです。また荒木村重の家臣の子であったが荒木家が滅亡したため松栄に弟子入りした内膳(南蛮屏風で有名)も挙げられています。なお内膳の子である一渓が書いた「丹青若木集」は、本朝画史に先んじており、日本初の画伝とも言われます。
そして京狩野。
偉大な永徳を継ぐ画風を得たのは、息子たちではなく、弟子の山楽でした。
山楽はもともと浅井家の家臣の息子で、やはり浅井家滅亡のため秀吉の口いれで永徳に弟子入りし狩野姓を許されました。
秀吉からの恩義に報いたのだけれども、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したために、豊臣家の残党の嫌疑もかけられたりしたようです。
山楽の項目には、門人であるらしい山卜、山甫(三甫)、山益(三益)についても示されています。
山楽の一番弟子であったのが山雪。肥前の生まれで父に伴い大坂へ、その後に山楽へ弟子入りし山雪の娘と結婚して婿入り、山楽の嫡子が早世したので後継ぎとなったとのこと。
山雪は「奇想の系譜」でも挙げられているように、とてもクセのある作品を描きました。
またかなりの研究家であったらしく、故事人物を描く際に原典に立ち戻るようにし、他の画家が慣例のみに従って描くのを批判したそうです。
永納は山雪の子で京狩野3代目。「山」ではなく永徳由来の「永」の名になりこの後の京狩野は全て「永」で始まる名になりました。山楽の柔らかな作風、また大和絵的な画風を主にしたとのこと。
そして永納は山雪の意思を引き継いで「本朝画史」を出版しました。古代から近世にかけて収録人数四百余名の画人列伝、狩野派の画法・画論、印譜などを供えている、我が国初の本格的画伝とも言われています。
4代目の永敬は永納の長子。いままで京狩野は剛柔と交互に画風が揺れてきたことから推測できますが、永敬は祖父の山雪の画風への回帰も行ったようです。また土地柄として公家を顧客とすることから、大和絵を描くことも大事だったようです。この山雪的画風の流れは、永敬の門人である高田敬輔そして敬輔に学んだ曾我蕭白へと続いていったとのこと、やはり「奇想の系譜」は「系譜」として存在しているわけです。
永敬の子の永伯からはずっと養子のつながり。永伯→永良→永常→永俊→永岳。
9代目の永岳は京都御所障壁画を何と112面も制作したとか。また彦根城でも活動したようです。そして江戸時代の終わる直前に亡くなりました。

  • 探幽と江戸狩野

(続く…と書いたまま放置)