はじめに
枚方市在住の @riocampos です。年を重ねてきた人間(おっさん)が住んでいる地域の歴史に興味を持つのはフツーのことだろうと思っています。私自身は枚方市生まれではないので小中学校で行われている(であろう)枚方に関する歴史教育を受けていません。ですので枚方市及び北河内に関する私の知識は、成人後に枚方市に移り住んできた、この20年程度の学習に基づいています。
そんななか、数年前(2013年5月)に出版された「枚方の歴史」
- 作者: 瀬川芳則,馬部隆弘,常松隆嗣,東秀幸,西田敏秀
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2013/05
- メディア: 単行本
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これらはほぼ偽史や捏造、そして創作によるものだとありました。
そしてこの「枚方の歴史」の著者のお一人でもある馬部隆弘・大阪大谷大学准教授の論文集*1が、ここで取り上げる「由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に」です。
- 作者: 馬部隆弘
- 出版社/メーカー: 勉誠出版
- 発売日: 2019/02/28
- メディア: 単行本
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ざっくりまとめを読むには
実はこの論文集のまとめは、冒頭で述べた「枚方の歴史」の馬部氏担当章(第4章 戦乱の枚方)に書いてあります(もちろん枚方市の範囲内ではありますが)。そして馬部氏は本論文集の終章として(まとめの意味として)その部分を掲載しています。ですので、この論文集を買わずとも「枚方の歴史」を読めば論点を知ることが出来ます。ですので、この論文集を読む意味は、なぜ「枚方の歴史」に書かれた内容に至ったのか、を理解するためと言えるでしょう。
「北河内を中心に」
「北河内」とありますが、取り上げられている地域は実質的に枚方市に限られています*2。何故ならば、馬部氏は大阪大学大学院在学中から2011年度末まで枚方市非常勤職員として市史業務を担っており、枚方市に関する論文を多数書いておられました。特に、市民からの借用古文書の水損事件が生じた後に
古文書所蔵者及び市民に対して示すことのできる筆者の最大限の誠意は、枚方市が保管する古文書を可能な限り論文等に活用することだと考えるように
(序章 p. 7)
なったとのことで、その面でも枚方市域の歴史に関する論文の出力へのモチベーションが高くなったのだと思われます。
なお「北河内を中心に」とあるのは、この論文集の最大の目玉である「椿井文書」が、今の木津川市在住であった椿井政隆に由来し、また枚方市と隣接する京田辺市の歴史観に多大な影響を与えており、さらには遠く近江にまでその範囲を広げているためです。
個人的興味部分
700ページを超える大著を歴史ド素人の私がそう簡単に熟読出来るわけでもありません。ので興味を強く抱いた部分について挙げていきます。
交野天神社と樟葉宮伝承地(第一部第三章)
樟葉宮伝承地というのは継体天皇の関連史跡です。念の為に継体天皇をざっくり説明すると
第26代に数えられる天皇。名はオオドノミコト。応神天皇の 5世の孫。…大伴金村らに越前国から迎えられて河内国で即位した。河内国の樟葉宮,山背国(山城国)の筒城宮,山背国の弟国宮と移り,さらに大和国の磐余玉穂宮に都した。
継体天皇(けいたいてんのう)とは - コトバンク
個人的には、継体天皇は当時の北陸の豪族の長であり、ヤマト王権とは全く関係ないと思っています。そして、天皇家の血筋は神武天皇が存在するとしてもそこから北陸由来の血筋に完全に変わった、ので右翼団体の好きな「神武以来萬世一系」云々ってのは大嘘だな、と思っています。それはさておき。
樟葉宮の伝承地…文献上での確証も得られていない…
…『五畿内志』の…『河内志』…樟葉宮が楠葉村に比定されるとだけ…具体的な場所や交野天神社については一切触れていない…『河内名所図会』や『淀川両岸一覧』でも同様
(pp. 112-113)
とあるように、継体天皇の樟葉宮と交野天神社との関連性は江戸時代には全く見られなかったようです。「樟葉宮」との名称から楠葉村と関係するのでしょう、という程度。交野天神社も
中世から明治初期にかけて…「天神社」・「天満宮」・「樟葉宮」などと呼ばれており、「交野天神社」という呼称は一切確認できない
(p. 147)
とのこと。宮殿とお宮さんとで「宮」の字が被るのですが、だからといって神社が宮殿なのかと言われれば、それはどーなのかね、と言わざるを得ないでしょう。
しかし、交野天神社(というか楠葉の氏子たち)は明治10年代から継体天皇との関係性を主張し始めます。何故かというと、近隣の坂村(現在の京阪牧野駅近くの枚方市牧野阪周辺)にある片埜神社と交野天神社との社格争いのためなのです。実は交野天神社の由緒「交野天神縁起」(元禄十五年(1702年)に石清水八幡宮の社僧に書いてもらった)で
延暦六年…桓武天皇が交野で昊天を祭った際に、父の光仁天皇を配祀したのが交野天神社の草創…『続日本紀』にも描かれ…中国の皇帝にならって、いわゆる郊祀壇…が築かれた…
…交野天神社が交野郡内の天神社であることを根拠に『続日本紀』の記述をそのまま引用
(p. 113)
として交野天神社を「昊天祭祀」の地としていました*3。ですが、明治7年の教部省による神社由来調査の返答として片埜神社がその「昊天祭祀」の由緒を名乗って(実質、交野天神社から由緒を奪って)堺県へ報告します。それに負けない由緒が交野天神社に必要になったため、明治20年に至ってから継体天皇との関係を主張し出したようです。
ただ、交野天神社そのものではなく摂社の貴船神社を「樟葉宮伝承地」にしたのにも意味があるようなのですが、このあたりは地域の氏神とそれを包括するさらに広い地域の氏神との関係が描かれており、ちとややこしいので略します。
片埜神社
さて、交野天神社のライバル、より正確に言えば楠葉地域のライバルとして取り上げられた牧野地域の片埜神社、なのですが
『五畿内志』…江戸時代には「一宮」と称していた片埜神社を「延喜式神名帳」に記される式内片野神社に比定…かなりの牽強付会があった…坂村在住の好古者三浦蘭阪によって…星田村にある「カタノ大明神」に比定すべきだと指摘
(pp. 132-133)
されています。また現在、片埜神社は「河内一宮」を名乗っていますが、古くから河内国の一宮は間違いなく東大阪市東部の枚岡神社です*4。
中世以来片野神社を呼称した形跡は一切なく、「牧郷一宮」あるいは「牧一宮」を称していた…
…「一宮」は社名から拡大して地名に
(第二章第四章 三浦蘭阪の『五畿内志』批判 pp. 441-442)
なったために「河内一宮」とは「河内国内の地『一宮』の辺り」を意味するだけに過ぎません。なお
中世の枚岡神社は「平岡社」・「平岡宮」・「平岡大明神」と呼ばれ…「河内一宮」と呼ばれる事はない。
(p. 442)
江戸時代末期から延喜式に載った式内社の比定が盛んになっていったようですが、さらにそれが明治時代になって国家神道が標榜され、社格が重要視されたために各神社でいろいろと画策されるようになったのでしょう。ね。
蝦夷の首長アテルイと枚方市
これは簡単に言い切ります。
昭和後期からのガセです。
全国でルーツ探しがブームとなっており、東北地方では充てる地の再評価がなされ、地元の英雄となりつつあった。この一環でアテルイ終焉の地探索が始まり、1979年になると、ついにアテルイ処刑地と埋葬場所の「発見」記事が『河北新報』に掲載されるに至った。
(p. 277)
さらに正確に言えば河北新報1979年3月25日号だそうです。
で、なぜガセと言い切れるかと言えば、枚方市のある交野原は天皇家の狩猟地つまり「禁野」なのです。
禁野…でのアテルイ処刑など毛頭考えられない。捕虜としてアテルイを連れて入京した坂上田村麻呂はアテルイの助命を願った。朝廷はアテルイらの処遇について議論がかわされ、結果田村麻呂の歎願むなしくアテルイらは河内で斬首される。朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すことがあろうか。仮に何らかの事情で禁野で処刑したとしても、穢れてはならない禁野で処刑したことを朝廷の正史に明記するわけがない。
(p. 282)
正論ですね。しかも、アテルイの「首塚」が「発見」され定着していく過程が市史編纂室の方によりメモ書きされています。その中には冷静な対応を促すよう記載されています。
6. その他
アテルイの墓について、東北の人々の心情はよく理解できる。何らかの動きもむべなるかな*5である。だからと言って情に流されてはならない。あくまで史実に基づく正しい行政姿勢を示すべきである。
しかし残念なことに、枚方市はアテルイ伝承をさも正しいように見せています。pp. 291-299 の付論では、枚方市議会で「首塚」なる捏造史跡を取り上げた内容が掲示されています。
また枚方市のウェブサイトにも「地域の歴史」としてアテルイが取り上げられています。
さらにはアテルイに関するイベントもやっております。
そして市民も呆けたことを言っております。その返答も的外れです。
アテルイ・モレや王仁博士、七夕伝説などの伝承文化についても、郷土史として、道徳の時間などに郷土愛を育てる教材にすべき。
貴重な歴史文化遺産を生かして、子どもたちや市民の郷土の歴史への理解を深めることについては、基本方策 10 で、その方向性を示しています。
第6回枚方市教育振興基本計画策定審議会資料:審議会の答申(案)に対する市民からのご意見募集結果について
歴史は簡単に改竄されるんですよね…。あーホント怖い怖い>_<
「椿井文書」(第二部)
おそらく畿内の歴史に興味を持ち、さらに偽史に興味を持っている人であれば、この部分が一番面白いと思いますし、実際読んでいても楽しいです。当然ながら私自身の興味もすごくあります。が、内容が豊かすぎてまとめられません。すみません。
個人的に最も気になったのは、要約すると「椿井文書は継体天皇の筒城宮が現代の京田辺市周辺にあったことを支持するために『五畿内志』を補う内容の論集となった」ということでしょう。後半の『五畿内志』云々はよく言われることなのですがそれは結果であり、椿井政隆の最大の目的は筒城宮を位置を特定するためだったのですね(馬部氏によると)。そのため、京田辺市関係者はどうしても椿井文書の支持者になってしまうようで…。
おまけリンク
お詫びの代わりとして、「椿井文書」に関して発表があったシンポジウム「近代日本の偽史言説 その生成・機能・受容」についての Togetter のリンクを張っておきます。
シンポジウムがまとめられた本についての図書館の書評(?)も見かけました。