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都路華香に対する山元春挙の追悼文(髙島屋史料館「山元春挙と高島屋」関連)

生誕150年の山元春挙イヤーなので各所で山元春挙関係の展示が行われています。大津市歴史博物館では「蘆花浅水荘と山元春挙画塾」が開催されていました。また先日まで滋賀県立美術館で開催されていた山元春挙展はいま笠岡市立竹喬美術館へ巡回してますね。その後は富山県水墨美術館へ巡回するようです。
さて、いま大阪堺筋の髙島屋東別館にある髙島屋史料館でも企画展「山元春挙と高島屋」が開催されています(8/15まで)。

この展示の一番の推しは、最近修復し直した「世界三景 雪月花*1」三点揃い踏み展示なのだと思いますが、会場内各所に示してある春挙と髙島屋との関連を示した文がなかなか面白い。
その中でも、都路華香追悼画集である「蕐香墨蹤*2」に寄稿した山元春挙の文が気に入ったので、元の画集の所蔵館*3に行って複写してもらい、それを書き起こしました。会場では「高島屋の馬部屋」との見出しで展示されてました。パーティションで区切った小空間を馬房に見立てて「馬部屋」としたのはなかなか粋な見方だと感じました。
会場に展示してあったのは前半部分でしたが、いちおう全文を示します。

靑年時代の交友 山元春擧

 その頃はまだ私達が若い時分であつた。東京の川合玉堂氏と都路君や私たちで君だの僕だのと云つて同年配で親しい友であつた。
 三人はよく打ち連れだつて、京都近郊の自然を探り、牛尾山、叡山、鞍馬山などを大抵一緖に出掛けたこともある。
 その時分の都路君をいま思ひ出してみると、至極綿密な、そして非常に神經の銳い人で、少しからだが惡くても、すぐ海岸へ保養に出かけたりした。それだけ幾分體質は弱い人だつたのである。
 都路さんは新町の、前の三井銀行の近くに居られて、どこかの出品でもすると云ふやうな時には、お互に、下繪の見せ合ひをしたり、またその批評なども仕合つたものだつた。當時の友人としては、尙外に田畑龜堂君などがゐた。中でも都路君は一番兄分で、その次が私、次いで川合君、田畑君と云ふ風に、年配順で、何處へでも出かけて行つたものだつた。
 これより先、當時私が十八歲位、多分明治二十年か二十一年頃で、鴨の競馬を見に行つて、それを寫生してゐた。するとすぐ私の橫へ來て、また同じやうにそれを寫生してゐる人がある。そこで互に寫生をしながら「自分は都路華香だ」と云つたのが、そもそも私達が互に知り合ひとなる最初の機會だつたのである。
 その時代の都路さんは、細いやさ男でいかにもきれいな人だつた。だんだんそれから後になつては、よく高島屋の下繪などを描くやうになり、お互に顏を合す時がおおくなつたが、親しい上記の友人たちが揃ふて硏究するやうになつてからは硏究寫生が多く、又行き來も繁くなつた。
 この高島屋の馬部屋——とその時分云つたこの店の貿易物の繪を描く場所があつて大きな部屋に幾つも厩舍のやうな仕切りがあり、この仕切の一つ一つが誰の部屋誰の部屋ときめてあつた。そこへ皆が通ふて仕事をして硏究の學資を稼ぎ出したものである。——そこへ上田萬秋君、池田桂仙君、それにまた栖鳳さんなども居られて、米國の博覽會へ出品されたとおもふが「群猿」などゝ云ふ作品の出來た時分の事であつた。
 この高島屋時代は恐らく明治二十二三年頃で、私はまだ十九か二十歲位で、高島屋から西洋の博覽會などに出た美術的な寫眞や油繪や圖案の複製版の參考品を借りて來て、それを複寫して分け合つたりして共に硏究した事もある。しかしその參考品と云ふのは、天然の風景、例へば瑞西の景色とか、西洋の博覽會に出た油繪の寫眞などで實際今日でみればお話にならないやうな、何でもないものだつたが、當時としては、それが珍らしく有難いものだつた。今日のやうに外國の美術雜誌などを自分で取つてみると云ふ事も出來ず、新しい智識を求めやうとすれば高島屋より外になかつたのであつた。だから當時のわれわれは、それ位に新しいものを求める心は强かつたのだつた。
 今日とちがつて、その時代、この明治二十年頃の畵家の生活狀態と云ふものは、至つてさもしい微々たるもので、さうした中から、さう云う硏究をつづけてゐたので、その眞劍味と云ふものは、今からおもふといかにも子供らしいやうにおもはれるが、それだけになかなか熱意に富んだものだつたのである。
 都路君は前からあゝ云ふ特色のある人だつた。なかなか勉强家で、高島屋の下繪などの中にも大變面白いとおもふものがなかなか澤山あつた。皆その頃は今日とちがつて、至つて無邪氣なものだつた。いろいろ當時、われわれの同時代作家も多かつたし栖鳳さんなどゝ君とは同門の友であつたが、君の家と私の家とは近かつたし、年配が等しかつた(私の方が一つ下だつた)關係から、どちらかと云ふと二人は行き來をする事は一番近かつた。
 その頃、自分は室町二條下るところに住んでゐた。この家と云ふのが、九尺二間——と云ふ至つてせまい小さなものだつたが、私がはじめて、さゝやかながらも家を持つたと云ふので、そのころ恩師森寬齋翁が、あだかも八十一歲の老齡で、多分死なれる一年前の事だつたとおもふが、その老軀をひつさげて、杖に倚り、自から旭下來鶴の圖を描かれて、わざわざ持つて來てくれられたのをいまだに覺えてゐる。これは半折でいまだに宅にある。當時私はよろこびに堪へず、揉銀の紙をもつて、粗末な表裝をしてこの新居の床にかけたものだつた。
 都路君は恩師楳嶺翁を慕ふ念の厚い人だつた。良景院華香一枝居士と云ふ戒名も、楳嶺翁から貰つた號よりなるものださうであるが、今の世の中は師を思ふのを恥のやうにおもふ傾向がある。都路君が恩師を慕ふ心の厚かつた事などは、洵に聞いてもゆかしい感がする。道義人情千古不磨であるとおもふ。
(====会場展示はここまでだったと思います===)

 明治二十四年であつたとおもふが、靑年繪畵協進會に、都路君は「鷄」を描いて出された。栖鳳さんは空也の瀧と云ふのでもないが兎に角瀧の山水、芳文さんが木曾山中私は人物畵で、黃𧘑*4平を描いた。都路君の鷄圖はごく克明に寫生の出來た固い眞面目な作品で、公開の展覽會で見た君の作品に對する最初の記憶だつたとおもふ。
 如雲社時代に及んで、君の個性と云ふものがはつきりして來た。その時代に專心藝術を磨いたのだつた。腕の完成に努力した時代だつた。だから本格的な修行をしたのだつた。寫生そのものにも懸命の努力があり、古人の筆蹟に對する硏究も怠りなく、みつちりと腕を磨いたのである。その努力のあとは、狩野風もあり、南畵風もあり、西洋風のものもあり、又光琳風の作風もあつて、その時代に本當の勉强をしておいた人は中途で崩れずにながくその聲譽を持續してゐる。
 さうして硏究してゐた三人のうち、いまは川合君と私だけになつてしまつて、何だか淋しいやうな氣がする。
 私が都路君の病氣を見舞つたときは、もう既に病重く、面會謝絕になつてゐて、子息の宇佐雄君が、床ずれがして困ると云ふてゐたが、床ずれがするやうになつてはよほど衰弱がはなはだしいと私もおもつてゐた。
 君は早くより禪學に入り、何等か心の安定を求めてゐられた。今度の死でも、その意味に於て、堂々天下に恥ざる死に方であるとおもふ。

追悼文で出てきた画家たちを生年で並べてみると

となります。
「蕐香墨蹤」には他にも多数の都路華香と(もちろん山元春挙とも)同世代及び一世代下の画家たちや美術記者などの追悼文が掲載されていました。時間の関係でちゃんとは読めませんでしたが、通しで読んでみたいとも感じました。

誤字は無いように注意しましたが、あった場合にはご容赦くださいませ、またご指摘頂ければ幸いです。

*1:山元春挙《ロッキーの雪》竹内栖鳳《ベニスの月》都路華香《吉野の桜》なお別室で「吉野の桜」の修復の様子を写したビデオが毎時30分から20分ほど放映されていました。

*2:昭和7年(1932) 編纂兼発行者 富田渓仙

*3:京都府立京都学・歴彩館

*4:「⿰衤勺」