今日「京の国宝」展へ(何度目か分かりませんが)京博まで観に行きました。今週一週間だけ展示の3作品のためです。今週を終えると京博はしばらく休館して10/9から「畠山記念館の名品展」です。今日から前売り開始です。なので平常展は来年までありません。寂しい…。
展示替え3点を観に来た。観に来る甲斐があった。次は畠山記念館の名品展ですね(今朝チケット予約した (@ 京都国立博物館 in 京都市, 京都府, 京都府) https://t.co/J8rhvvrP9D pic.twitter.com/Uc7rAnqHVY
— りおかんぽす (@riocampos) 2021年9月9日
きっかけツイート
先日「京の国宝」で検索していたときに、このようなツイートを見掛けました。
京都府古社寺什宝調査録に、空海由来の三十帖冊子が教王護国寺にあるのを恨みに思った金剛峯寺のお坊さんが借りパクしてしまい、困った教王護国寺がお上に訴えた、という話が載ってた。
— すばる (@sbr0153) September 4, 2021
面白すぎて展示ケースの前で爆笑してしまった。
凄く読み易い筆跡だし、これから京の国宝展行く人は是非、読んで!
出品一覧に載っている「12:京都府古社寺什宝調査録」は後期のみの出品でした。見開き展示の左ページに「名稱 聖教三十冊及筥」とあり「あ、仁和寺の三十帖冊子のことだな」と思って内容を読まずにザッと通り過ぎていました。
でも内容が面白いと書いてあればやはり気になります。ということで今回改めて読み直したところ、かなり面白かったので書き写しましたw 話は途中までしか書かれていないので続きが気になりますが、いずれ調べてみたいと思います。
翻刻
改行位置も記録したのでそのまま記します。
名稱
聖教三十冊及筥
所有者所有地
京都府下葛野郡花園村大字御室 仁和寺
作者傳来
寺傳云弘法大師入唐將来品ナリシ又云此聖教丗冊其先ハ教王護
國寺の什寶ナリシカ髙野山金剛峰寺ハ大師終焉ノ地ニシテ大師將
来品手澤品*1等モ多クアレハ此聖教モ亦同寺ニ傳クヘキモノナリ
ト其譲與ヲ教王護國寺ニ迫リシモ教王護國寺ニテハ由緒ヲ述ヘ
其請ヒヲ容レサリシニ髙野山ノ某僧深ク之ヲ恨ミ教王護國寺ヲ欺
キテ借リ出シ携帯逃亡シタレハ教王護國寺ニテハ大ニ驚キ官ニ訴
ヘテ其裁断ヲ仰シニ官ニ於テハ金剛峯寺ニ對テ速ニ返戾スヘキ
㫖*2ヲ令シ一方ニハ逃亡セシ髙野山ノ僧ノ所在ヲ穿鑿*3セシメラレシ河内
感想など
それにしても高野山の僧の論理が強引ですね。「ウチは弘法大師の終焉の地、大師由来の品も多くあるのだ。この三十帖冊子も高野山にあるべきだ!ウチに譲れ!」そりゃ東寺も嫌がりますよw しかもそのあとそれを逆恨みして「東寺を欺して借り出し、携帯して逃亡」…。
ページ終わりが「河内」になってますけど、このあと河内で何があったんでしょうね…知りたいですw
なお「京の国宝」展の図録の「23:三十帖冊子」の解説には以下のようにあります。
伝来は、附属文書である左弁官下文の写し、ならびに「三十帖策子々細」、行遍僧正の消息などに詳しい。これらによると、空海入定の際に高弟の実恵、真雅の両人に託して東寺経蔵に納めさせたが、高野山第二世座主真然が貞観十八年(876)に高野山へ持ち帰り、東寺からの再三の返却催促にも応じなかった。その後、諸処に分散して散逸したが、右大臣藤原忠平はこれを惜しみ、勅命により大僧都観賢に収集させ、その大部分をまとめることができて、延喜十九年(919)十一月、東寺の経蔵に安置して長者に守護させることとした。その後、文治二年(1186)仁和寺の守覚法親王(1150〜1202)が東寺より借用して、それ以降仁和寺に伝来している。
高野山の僧(しかも座主の指示!)が借りパクした上に散逸させ、その後は仁和寺のエラい人が箱ごと借りパクしてそのまま現代まで…。昔の人は何かと乱暴ですね。
また三十帖冊子を納める箱である「24:宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱」の解説には
と書いてあります。もしや「京の国宝」展の別室に「55:東宝記」が展示してあったのはこのこともあったのかしら(ちゃんと読んでない…)。
いろいろと面白かったです。ハイ。