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福田平八郎が鯉の写生に訪れた並河靖之の山科の別荘「恋鯉荘」はどこにあったか

結論

こちらです。いまは残念ながら池が無くなりマンションになっています。

検索のきっかけ

現在、大阪中之島美術館にて「没後50年 福田平八郎」展が開催されています。第3回帝展特選作品で皇室お買い上げとなった大作「鯉*1」(国所有、皇居三の丸尚蔵館収蔵)が展示されている右側展示ケースに、やはり鯉が描かれた幅広の掛け軸を見掛けました。ジッとしている大きな真鯉。画面上部を大きく占める余白により池の底に居る気配が強くなります。

題は「鯉(恋鯉荘にて)」。大正12(1923)年頃の作品で並河靖之七宝記念館を運営する並河靖之有線七宝記念財団の所蔵です。大きさは縦159.5cm 横114.7cm。図は展覧会図録から引用しました。
この絵を見てとても印象深かったこと、そして岡崎に記念館がありよく知った名である並河靖之に関連すること、さらには「恋鯉れんり荘」なる面白い名前に興味を惹かれて調べようと思い立ちました。

まずは並河靖之と恋鯉荘の関係を調べる

ググっても当たらなかったので、続いて国立国会図書館デジタルコレクションで「恋鯉荘」を検索したところ、雑誌陶説447号の「近代の七宝師たち(5)」(佐藤節夫著)に恋鯉荘に関する記述を確認しました。

なお「山科駅の北に千坪余の土地を購入し、百坪の池を造って三尺幅の水路でかんがい用水を引き入れた。そして大小三百尾の鯉を放った。大正7年のことである。」とありますが、山科駅つまり東海道線が現在の位置を通るようになったのは大正10(1921)年のことです。
福田平八郎のことも取り上げられています。「この別荘は一般に開放されていたので、よく京都から画家がやってきて写生していた。その一人に福田平八郎がいる。…並河は最も気に入っている三尺大の真鯉を一匹だけ福田に描いてもらった」。この絵がまさに「鯉(恋鯉荘にて)」なのだと思われます。描かれた鯉の大きさと絵の大きさも合っているので実物大なのでしょう。
デジコレの他の検索結果には俳句雑誌の懸葵の昭和11年6月号の句会も含まれていました*2。ここには「恋鯉荘は毘沙門堂の傍に在る京の七宝屋並河家の別業*3で、鯉をもつて聞えた山科名所の一つである」と書かれています。確かに毘沙門堂は「山科駅の北」にありますが少し距離があります。本当に「毘沙門堂の傍」なのだろうかと首を傾げました。

山科駅の北」からもう少し位置を絞りたい

大正のころの山科の地図があれば…と思い検索すると近代京都オーバーレイマップを見つけました。以前にも近代の京都市内の地図を見たいと思った時に使いました。ただし大正の頃の山科はまだ京都市では無かった*4のでどうかなあと思いましたが、ありがたいことに山科駅北側も閲覧できる地図でした。
では地図を比較していきます。

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(大正11年)(京都大学文学研究科所蔵)

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和10年)(京都市都市計画局)

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和28年)(京都市都市計画局)

Googleマップ(2024/3/24参照)

南北に真っ直ぐ延びる「安朱馬場ノ西町」「安朱馬場ノ東町」の間を通る道が毘沙門堂への参道です。参道も含めて「毘沙門堂の傍」と考えれば、この辺りに鯉を飼えるような池のある大きな家が恋鯉荘かな…ありますね、馬場ノ西町にも馬場ノ東町にも。大正11年の地図でみた時のこの辺りの家なんだろうなと思われます。

現地へ行って確認するしかないかなあ、とも思いました(もちろん現地へ行っても分からない可能性の方が高いのですが)。

意外なところから恋鯉荘の番地まで特定

今日、改めてデジコレを「並河靖之」で図書・雑誌・新聞に限定して検索してみたところ、不動産判例集成 総論(菅生浩三 編著)なる本が含まれていました。

「…によれば、本件鯉は、並河靖之が飼育放流を始めた当初から、もつぱら庭園風致の維…」
これは!
と思って確認すると、並河靖之と鯉の話に関するもの。

〔1068〕従物の意義と庭園の池の鯉の従物性
(東京地判昭35・3・19・昭和30年(ワ)9878号・判時220号31頁)
 しかして、従属物すなわち、法律上、いわゆる従物であるためには、主物の所有者において、その主物の常用に供するためこれに附属させた自己の所有にかかるものであることを要するものと解せられるところ、魚類、ことに鯉等の淡水魚は、古来食用魚として飼育されるものを除き、概して庭園池中に放流されることによつて世人に親しまれ、池中に棲息游泳することによつて、観賞の用に供されるのが常であり、社会通念上、ここに、この種の鯉の大半の存在価値と意義があるものと認められるが、前認定の事実によれば、本件鯉は、並河靖之が飼育放流を始めた当初から、もつぱら庭園風致の維持充実をはかる意思のもとに棲息游泳させ、池の構造にも特別の設備と工夫を加え客観的に、継続して、しかも、その池には、欠くことのできない観賞用の鯉として、飼育してきたことが肯認されるから、本件鯉は、法律上これを見れば、右の土地の従物と認めるを相当とする。しかして、また、従物は、主物の法律的運命に従うものであるから、主物である本件土地について、賃貸借契約が締結された以上、特別の意思表示が認められない本件においては、二百五十八尾の本件鯉をも含めて前記賃貸借契約が成立したものというべきである。

これは恋鯉荘に関する話だろうと目星を付け、この判決文を確認したいと思いました。裁判例検索に事件番号を入れて検索すれば見つかるだろうと思いましたが残念ながらこのデータベースには含まれず。仕方ないので事件番号でググったところ、ありがたいことに載せているサイトがありました。

この判決文の末尾の物件目録に「京都市東山区山科安朱馬場西町拾四番地」とありました。この住所で検索すると、本記事冒頭の地図に示されるマンション「アンシュひのき」に対応すると判明しました。
大正11年の地図で再確認すると赤で囲った敷地に相当します。

他のサイトの情報からも目星をつけていた

こちらのサイトを見ていた時にも上記のマンション名が出てきており、鯉の話も載っていたので恋鯉荘はコチラなのかもと思っていました。

ページ:
p10~11


梨木香歩『家守綺譚』本文:
家の北側は山になっている。山の裾には湖から引いた疏水が走っている。家の南は田圃だ。その田圃に疏水から用水路が引かれている。その水路の途中が、この家の池になっている。ふたま続きの座敷にL字を描くように縁側が付いていて、そのL字の角にあたる所の柱が、池の中の石の上に据えられている。縁側から池を挟んだ向こうに、サルスベリがこちらに幹を差し掛けるようにして立っている。
鏡山次郎のコメント:
 主人公(綿貫征四郎)が「家守」していたという候補ですが、私の推測として、3つぐらい候補が考えられます。
 1つは「ひのき」(安朱馬場ノ西町)で、今はマンションになっていますが、元は和風の屋敷で、その後料亭になったのですが、琵琶湖疏水山科駅との中間点にあり、庭に大きな池があり鯉が泳ぎ、サルスベリがあったかどうか記憶はありませんが木々も多くありました。作品の「L字の角にあたる所の柱が、池の中の石の上に据えられている」という表現から思い当たりました。(以下略)

結局はその見積が正しかったことになります。

感想

恋鯉荘がいまも「鯉で有名な料亭」として続いていれば良いなあと思っていましたが、残念ながらそうはいきませんでした。
また判決文についての詳細は控えましたが、戦後の接収での混乱でこんなことが…と思いましたので、もし時間的余裕がある方は一読されると良いかと。

*1:展示は今日3/24まで

*2:ちなみに「懸葵」の主宰は「恋鯉荘」命名者の大谷句仏です。参考→ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545021

*3:別荘の意

*4:昭和6年4月に宇治郡山科町から京都市東山区編入」← https://www.city.kyoto.lg.jp/yamasina/page/0000013271.html