子子子子子子(ねこのここねこ)はてブロ部

Macネタが主のIT記事と、興味ある展覧会リストや観覧感想などを書いてますよ。自転車ロードレースも好き。

いま関西で見れる推しの仏画たち(大原嘉豊「仏画の見方」に基づいて)

京博の大原研究員に私淑して仏画を楽しんでいる @riocampos です。

ご存じの通り、大阪関西万博に関連して、関西では奈良博「超国宝」大阪市美「日本国宝展」をはじめとして国宝祭りが開催されております。それぞれの会場で仏画を見掛けます。以前から仏画鑑賞の基礎にしているこの本に載っている仏画も多く見掛けます。

ということで、この本の第5章「近代の大コレクターから学ぶ仏画の鑑賞」に載っている仏画がどこの展覧会で展示されていたか、自分の記録としても、また他の人へのご案内としても、まとめてみました。なおこのリストは以前に作成してブクログに掲載したものを使いました。題名前の◉は国宝、◎は重要文化財、◯は(戦前の)重要美術品、印なしは国文化財指定なしの意味です。

仏画の見方」第5章 近代の大コレクターから学ぶ仏画の鑑賞

作品1 普賢菩薩像
東京国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
大阪市立美術館 5/20-6/1
作品2 大威徳明王像
岡倉天心ボストン美術館蔵)
平安時代
11世紀
作品3 春日千体地蔵図
(福岡孝弟→奈良国立博物館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品4 虚空蔵菩薩像
井上馨東京国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
奈良国立博物館 5/20-6/15
作品5 男山八幡宮曼荼羅図
井上馨京都国立博物館蔵)
鎌倉時代
14世紀
作品6 両部大経感得図
(藤田傳三郎→藤田美術館蔵)
平安時代
保延二年(1136)
藤田美術館 4/1-6/30(龍猛相承図のみ)
作品7 宝楼閣曼荼羅図
(川崎正蔵→フリーア・ギャラリー蔵)
平安時代
12世紀
作品8 千手観音像
(川崎正蔵東京国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
奈良国立博物館 4/19-5/18
作品9 ◯山越阿弥陀図 冷泉為恭筆
大倉喜八郎→大倉集古館蔵)
江戸時代
文久三年(1863)
作品10 普賢十羅刹女像
(赤星弥之助→奈良国立博物館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品11 十一面観音像
井上馨益田鈍翁→日野原節三→奈良国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
奈良国立博物館 4/19-5/18
作品12 一字金輪曼荼羅図
益田鈍翁奈良国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
作品13 大威徳明王図像
益田鈍翁→大和文華館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品14 孔雀明王像
井上馨→原三溪→東京国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
大阪市立美術館 4/26-5/18
作品15 焔摩天像
(原三溪→MIHO MUSEUM蔵)
平安時代
12世紀
和文華館 5/8-5/25
作品16 千手観音像
団琢磨奈良国立博物館蔵)
平安時代
12世紀
作品17 那智瀧図
(赤星弥之助→根津嘉一郎根津美術館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品18 釈迦金棺出現図
(松永安左ヱ門→京都国立博物館蔵)
平安時代
11世紀
奈良国立博物館 5/20-6/15
作品19 清瀧権現像
(原三溪→畠山一清→畠山記念館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品20 善光寺如来縁起絵3幅
高橋是清根津嘉一郎根津美術館蔵)
鎌倉時代
13〜14世紀
京都国立博物館 5/25-6/15
作品21 山越阿弥陀図
(上野理一→京都国立博物館蔵)
鎌倉時代
13世紀
奈良国立博物館 5/20-6/8
作品22 閻魔天曼荼羅図
(村山龍平→京都国立博物館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品23 虚空蔵菩薩像
武藤山治東京国立博物館蔵)
鎌倉時代
13世紀
作品24 普賢菩薩
益田鈍翁→細見亮市→細見美術館蔵)
平安時代
12世紀
作品25 愛染明王
(原三溪→細見亮市→細見美術館蔵)
平安時代
12世紀

仏画の見方」その他の章に掲載の仏画

図3-15 両界曼荼羅図 子島曼荼羅
(子島寺蔵)
平安時代
11世紀
奈良国立博物館 4/19-5/18
図3-17 十二天屏風
(東寺蔵)
平安時代
1191年
東寺宝物館 3/20-5/25(半期に一隻ずつ)
図3-19 ◉六道絵のうち人道無常相図
聖衆来迎寺蔵)
鎌倉時代
13世紀
京都国立博物館 5/20-6/15
図4-4 ◉釈迦如来像(赤釈迦)
神護寺蔵)
平安時代
12世紀
大阪市立美術館 5/27-6/15

特に聖衆来迎寺の六道絵については本書及び「日本、美のるつぼ」展解説にて、唐物(中国絵画)の影響を強く受けた絵画(もしかすると中国人画工の関与がある作品か)として取り上げられている。

おまけ:原三溪「三溪帖」草稿にみる仏画八選(「仏画の見方」コラム欄から)

1 法隆寺壁画
(◎法隆寺金堂壁画法隆寺蔵))
2 弥陀 法華寺来迎三幅ノ中幅
(◉阿弥陀三尊及び童子像法華寺蔵))
奈良国立博物館 5/20-6/15
3 不動尊 高野山明王院
(◎不動明王童子像 赤不動(高野山明王院蔵))
4 水天像 西大寺十二天
(◉水天像 十二天像のうち(西大寺蔵)図3-9)
5 金棺出現図
(◉釈迦金棺出現図(京都国立博物館蔵))
奈良国立博物館 5/20-6/15
(第5章 作品18)
6 孔雀明王 原三溪蔵
(◉孔雀明王像(東京国立博物館蔵))
大阪市立美術館 4/26-5/18
(第5章 作品14)
7 十一面観音 益田鈍翁
(◉十一面観音像(奈良国立博物館蔵))
奈良国立博物館 4/19-5/18
(第5章 作品11)
8 普賢菩薩 博物館蔵
(◉普賢菩薩像(東京国立博物館蔵))
大阪市立美術館 5/20-6/15
(第5章 作品1)

奈良博「超国宝」展で観た、法華寺阿弥陀三尊及び童子像」は本当に素晴らしかったです。原三溪は阿弥陀像のみを評価し他の画幅の評価を落としていますが、なんのなんの眼福です。奈良博の展示空間でこの前に宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像が坐す空間と来たら…言葉にならない素晴らしさでした(しかも横には釈迦金棺出現図もあるという…)。

春名好重氏の本

古筆、つまり日本の書についても最近興味を持っている。
国立国会図書館デジタルコレクションで良い本があれば、と思って検索していたところ、春名好重氏の本が面白いと思った。「○○百話」とかも。とりあえずメモ書き。もちろん個人送信で読んでいる。

なお今回 pdf で取得したのはこれ。

日本仏教絵画研究(中野玄三)国デジ目次

最近さらに仏画への興味が深まっている riocampos です。
昨日くらいから中野玄三氏の本(論文)を国立国会図書館デジタルコレクションで読んでいる*1のですが、国デジへ最近アップされる本は目次がちゃんとなってないので作ってみました。

日本仏教絵画研究





あとがき

おそらく今後も国デジの目次付け記事を作っていくつもり。
読後感想もこの記事に付けられれば良いなあ。

*1:個人送信ありがたやありがたや

福田平八郎が鯉の写生に訪れた並河靖之の山科の別荘「恋鯉荘」はどこにあったか

結論

こちらです。いまは残念ながら池が無くなりマンションになっています。

検索のきっかけ

現在、大阪中之島美術館にて「没後50年 福田平八郎」展が開催されています。第3回帝展特選作品で皇室お買い上げとなった大作「鯉*1」(国所有、皇居三の丸尚蔵館収蔵)が展示されている右側展示ケースに、やはり鯉が描かれた幅広の掛け軸を見掛けました。ジッとしている大きな真鯉。画面上部を大きく占める余白により池の底に居る気配が強くなります。

題は「鯉(恋鯉荘にて)」。大正12(1923)年頃の作品で並河靖之七宝記念館を運営する並河靖之有線七宝記念財団の所蔵です。大きさは縦159.5cm 横114.7cm。図は展覧会図録から引用しました。
この絵を見てとても印象深かったこと、そして岡崎に記念館がありよく知った名である並河靖之に関連すること、さらには「恋鯉れんり荘」なる面白い名前に興味を惹かれて調べようと思い立ちました。

まずは並河靖之と恋鯉荘の関係を調べる

ググっても当たらなかったので、続いて国立国会図書館デジタルコレクションで「恋鯉荘」を検索したところ、雑誌陶説447号の「近代の七宝師たち(5)」(佐藤節夫著)に恋鯉荘に関する記述を確認しました。

なお「山科駅の北に千坪余の土地を購入し、百坪の池を造って三尺幅の水路でかんがい用水を引き入れた。そして大小三百尾の鯉を放った。大正7年のことである。」とありますが、山科駅つまり東海道線が現在の位置を通るようになったのは大正10(1921)年のことです。
福田平八郎のことも取り上げられています。「この別荘は一般に開放されていたので、よく京都から画家がやってきて写生していた。その一人に福田平八郎がいる。…並河は最も気に入っている三尺大の真鯉を一匹だけ福田に描いてもらった」。この絵がまさに「鯉(恋鯉荘にて)」なのだと思われます。描かれた鯉の大きさと絵の大きさも合っているので実物大なのでしょう。
デジコレの他の検索結果には俳句雑誌の懸葵の昭和11年6月号の句会も含まれていました*2。ここには「恋鯉荘は毘沙門堂の傍に在る京の七宝屋並河家の別業*3で、鯉をもつて聞えた山科名所の一つである」と書かれています。確かに毘沙門堂は「山科駅の北」にありますが少し距離があります。本当に「毘沙門堂の傍」なのだろうかと首を傾げました。

山科駅の北」からもう少し位置を絞りたい

大正のころの山科の地図があれば…と思い検索すると近代京都オーバーレイマップを見つけました。以前にも近代の京都市内の地図を見たいと思った時に使いました。ただし大正の頃の山科はまだ京都市では無かった*4のでどうかなあと思いましたが、ありがたいことに山科駅北側も閲覧できる地図でした。
では地図を比較していきます。

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(大正11年)(京都大学文学研究科所蔵)

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和10年)(京都市都市計画局)

京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和28年)(京都市都市計画局)

Googleマップ(2024/3/24参照)

南北に真っ直ぐ延びる「安朱馬場ノ西町」「安朱馬場ノ東町」の間を通る道が毘沙門堂への参道です。参道も含めて「毘沙門堂の傍」と考えれば、この辺りに鯉を飼えるような池のある大きな家が恋鯉荘かな…ありますね、馬場ノ西町にも馬場ノ東町にも。大正11年の地図でみた時のこの辺りの家なんだろうなと思われます。

現地へ行って確認するしかないかなあ、とも思いました(もちろん現地へ行っても分からない可能性の方が高いのですが)。

意外なところから恋鯉荘の番地まで特定

今日、改めてデジコレを「並河靖之」で図書・雑誌・新聞に限定して検索してみたところ、不動産判例集成 総論(菅生浩三 編著)なる本が含まれていました。

「…によれば、本件鯉は、並河靖之が飼育放流を始めた当初から、もつぱら庭園風致の維…」
これは!
と思って確認すると、並河靖之と鯉の話に関するもの。

〔1068〕従物の意義と庭園の池の鯉の従物性
(東京地判昭35・3・19・昭和30年(ワ)9878号・判時220号31頁)
 しかして、従属物すなわち、法律上、いわゆる従物であるためには、主物の所有者において、その主物の常用に供するためこれに附属させた自己の所有にかかるものであることを要するものと解せられるところ、魚類、ことに鯉等の淡水魚は、古来食用魚として飼育されるものを除き、概して庭園池中に放流されることによつて世人に親しまれ、池中に棲息游泳することによつて、観賞の用に供されるのが常であり、社会通念上、ここに、この種の鯉の大半の存在価値と意義があるものと認められるが、前認定の事実によれば、本件鯉は、並河靖之が飼育放流を始めた当初から、もつぱら庭園風致の維持充実をはかる意思のもとに棲息游泳させ、池の構造にも特別の設備と工夫を加え客観的に、継続して、しかも、その池には、欠くことのできない観賞用の鯉として、飼育してきたことが肯認されるから、本件鯉は、法律上これを見れば、右の土地の従物と認めるを相当とする。しかして、また、従物は、主物の法律的運命に従うものであるから、主物である本件土地について、賃貸借契約が締結された以上、特別の意思表示が認められない本件においては、二百五十八尾の本件鯉をも含めて前記賃貸借契約が成立したものというべきである。

これは恋鯉荘に関する話だろうと目星を付け、この判決文を確認したいと思いました。裁判例検索に事件番号を入れて検索すれば見つかるだろうと思いましたが残念ながらこのデータベースには含まれず。仕方ないので事件番号でググったところ、ありがたいことに載せているサイトがありました。

この判決文の末尾の物件目録に「京都市東山区山科安朱馬場西町拾四番地」とありました。この住所で検索すると、本記事冒頭の地図に示されるマンション「アンシュひのき」に対応すると判明しました。
大正11年の地図で再確認すると赤で囲った敷地に相当します。

他のサイトの情報からも目星をつけていた

こちらのサイトを見ていた時にも上記のマンション名が出てきており、鯉の話も載っていたので恋鯉荘はコチラなのかもと思っていました。

ページ:
p10~11


梨木香歩『家守綺譚』本文:
家の北側は山になっている。山の裾には湖から引いた疏水が走っている。家の南は田圃だ。その田圃に疏水から用水路が引かれている。その水路の途中が、この家の池になっている。ふたま続きの座敷にL字を描くように縁側が付いていて、そのL字の角にあたる所の柱が、池の中の石の上に据えられている。縁側から池を挟んだ向こうに、サルスベリがこちらに幹を差し掛けるようにして立っている。
鏡山次郎のコメント:
 主人公(綿貫征四郎)が「家守」していたという候補ですが、私の推測として、3つぐらい候補が考えられます。
 1つは「ひのき」(安朱馬場ノ西町)で、今はマンションになっていますが、元は和風の屋敷で、その後料亭になったのですが、琵琶湖疏水山科駅との中間点にあり、庭に大きな池があり鯉が泳ぎ、サルスベリがあったかどうか記憶はありませんが木々も多くありました。作品の「L字の角にあたる所の柱が、池の中の石の上に据えられている」という表現から思い当たりました。(以下略)

結局はその見積が正しかったことになります。

感想

恋鯉荘がいまも「鯉で有名な料亭」として続いていれば良いなあと思っていましたが、残念ながらそうはいきませんでした。
また判決文についての詳細は控えましたが、戦後の接収での混乱でこんなことが…と思いましたので、もし時間的余裕がある方は一読されると良いかと。

*1:展示は今日3/24まで

*2:ちなみに「懸葵」の主宰は「恋鯉荘」命名者の大谷句仏です。参考→ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545021

*3:別荘の意

*4:昭和6年4月に宇治郡山科町から京都市東山区編入」← https://www.city.kyoto.lg.jp/yamasina/page/0000013271.html

「京の河川絵図~水とくらし~」@ 京都産業大学ギャラリー 出品作品リンク集

タイトルの展覧会が気になっていながら前期終了の週にようやく観に行けた @riocampos です。

観に行ったのが夕方だったので1時間ちょっとしか居られず少し残念でしたが、おもしろい地図資料がたくさんあって僅かな時間であっても興奮しました。しかも展覧会図録も無料配布!とてもありがたい。

京産大図書館所蔵品はWeb閲覧できる?

展覧会サイトにこのような記載があります。

京都産業大学図書館貴重書電子展示室 淀川水系河川絵図デジタルギャラリー から図書館所蔵の河川絵図を閲覧いただけます。

展覧会図録に載せられた図版は小さめのため、実見では分かったことが図版からは読み取れない。しかしデジタルギャラリーであればよく見えるかも!

展示されていた作品へのリンク集

作品は巻物が多く、デジタルギャラリーはそのまま横長の図をWebに貼り付けた体裁です。下部に作品解説があるのもありがたいです。解像度はさほど高くないものが多いですが、そこは仕方ないでしょうか。
では、展覧会の展示番号と作品名を挙げていきます。なお図録の図版番号と展覧会の展示番号はNo.11およびNo.14のみ入れ替わっていました。

No.4 *1 賀茂川筋名細絵図
No.7 高瀬川筋明細絵図
No.9 西高瀬川絵図面控
No.11 桂川筋兼絵図
No.13 木津川筋絵図
No.15 伏見川之図
No.16 *2 大坂川口より淀川筋城州伏見近辺迄 川筋之絵図
No.17 *3 大川便覧
No.18 *4 伏見宇治川筋絵図
No.19 丹波保津川より嵯峨大井川迄之図
No.22 此度五畿内近国大水

また、一点だけは賀茂絵画資料デジタルギャラリーに掲載されています。

No.3 *5 加茂川絵図

版画などは京産大以外の公開サイトで見れる?

花洛一覧図

展示作品のうち、版画などは残念ながら京産大図書館のデジタルギャラリーで公開されていませんでした。個人的にはNo.14(図録番号No.11)の「花洛一覧図」が気になったのです。図版作成は横山崋山!
ということで検索をかけました。結果を先に言えば、わりとみつかりました。

使いやすく高精細なサイトとしては

の2サイト。かなり詳細に見れるのがうれしい。

上の2サイトはググって見つけました。次に思いついた検索方法としては、やはりジャパンサーチ。検索結果から画像が公開されているサイトのみに限定したり、またパブリックドメインのみやCreative Commons CC BYに限定することも出来るのがポイント。

ということでパブリックドメインのものが国立国会図書館デジタルコレクションにありましたので貼り付けておきます。なお今回展示されていた作品では左側の注釈のような用紙は付いていませんでした。


黄華山 畫『花洛一覧圖』,橘枝堂 [ほか2名],[1---]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9369891 (参照 2023-06-08)

京都図絵

他には、みんな大好き吉田初三郎の鳥瞰図を使った「京都図絵」(No.12)も展示されていました。昭和天皇御大礼記念博覧会の際に作成された観光マップです。吉田初三郎の図のデータベースといえば日文研。探してみるとやはり見つかりました。なお図はトリミングしました。

京都一覧図画

6枚続きの横長大画面の浮世絵「京都一覧図画」(No.20)というものも展示されていました。絵師は五雲亭貞秀(すみません浮世絵画家はよく知らなくて)。これもジャパンサーチで検索。

歴彩館の画像は使っても良さそうなのですが、一枚ずつの図しか公開されていないので分かりづらい。ジャパンサーチ結果から

を見て頂くのが分かりやすいようです。拡大図版は歴彩館がかなり詳細。

てなところで

博物館よりも図書館所蔵の図版資料の方が公開されているんだなあと改めて感じました。
来週木曜日6/15から後期展示なので、また観に行きたいと思っています。前日6/14は展示替え休館なので注意。

*1:後期展示

*2:前期展示

*3:後期展示

*4:前期Ⅰ・Ⅱ、後期Ⅲ・Ⅳ展示

*5:前期展示

都路華香に対する山元春挙の追悼文(髙島屋史料館「山元春挙と高島屋」関連)

生誕150年の山元春挙イヤーなので各所で山元春挙関係の展示が行われています。大津市歴史博物館では「蘆花浅水荘と山元春挙画塾」が開催されていました。また先日まで滋賀県立美術館で開催されていた山元春挙展はいま笠岡市立竹喬美術館へ巡回してますね。その後は富山県水墨美術館へ巡回するようです。
さて、いま大阪堺筋の髙島屋東別館にある髙島屋史料館でも企画展「山元春挙と高島屋」が開催されています(8/15まで)。

この展示の一番の推しは、最近修復し直した「世界三景 雪月花*1」三点揃い踏み展示なのだと思いますが、会場内各所に示してある春挙と髙島屋との関連を示した文がなかなか面白い。
その中でも、都路華香追悼画集である「蕐香墨蹤*2」に寄稿した山元春挙の文が気に入ったので、元の画集の所蔵館*3に行って複写してもらい、それを書き起こしました。会場では「高島屋の馬部屋」との見出しで展示されてました。パーティションで区切った小空間を馬房に見立てて「馬部屋」としたのはなかなか粋な見方だと感じました。
会場に展示してあったのは前半部分でしたが、いちおう全文を示します。

靑年時代の交友 山元春擧

 その頃はまだ私達が若い時分であつた。東京の川合玉堂氏と都路君や私たちで君だの僕だのと云つて同年配で親しい友であつた。
 三人はよく打ち連れだつて、京都近郊の自然を探り、牛尾山、叡山、鞍馬山などを大抵一緖に出掛けたこともある。
 その時分の都路君をいま思ひ出してみると、至極綿密な、そして非常に神經の銳い人で、少しからだが惡くても、すぐ海岸へ保養に出かけたりした。それだけ幾分體質は弱い人だつたのである。
 都路さんは新町の、前の三井銀行の近くに居られて、どこかの出品でもすると云ふやうな時には、お互に、下繪の見せ合ひをしたり、またその批評なども仕合つたものだつた。當時の友人としては、尙外に田畑龜堂君などがゐた。中でも都路君は一番兄分で、その次が私、次いで川合君、田畑君と云ふ風に、年配順で、何處へでも出かけて行つたものだつた。
 これより先、當時私が十八歲位、多分明治二十年か二十一年頃で、鴨の競馬を見に行つて、それを寫生してゐた。するとすぐ私の橫へ來て、また同じやうにそれを寫生してゐる人がある。そこで互に寫生をしながら「自分は都路華香だ」と云つたのが、そもそも私達が互に知り合ひとなる最初の機會だつたのである。
 その時代の都路さんは、細いやさ男でいかにもきれいな人だつた。だんだんそれから後になつては、よく高島屋の下繪などを描くやうになり、お互に顏を合す時がおおくなつたが、親しい上記の友人たちが揃ふて硏究するやうになつてからは硏究寫生が多く、又行き來も繁くなつた。
 この高島屋の馬部屋——とその時分云つたこの店の貿易物の繪を描く場所があつて大きな部屋に幾つも厩舍のやうな仕切りがあり、この仕切の一つ一つが誰の部屋誰の部屋ときめてあつた。そこへ皆が通ふて仕事をして硏究の學資を稼ぎ出したものである。——そこへ上田萬秋君、池田桂仙君、それにまた栖鳳さんなども居られて、米國の博覽會へ出品されたとおもふが「群猿」などゝ云ふ作品の出來た時分の事であつた。
 この高島屋時代は恐らく明治二十二三年頃で、私はまだ十九か二十歲位で、高島屋から西洋の博覽會などに出た美術的な寫眞や油繪や圖案の複製版の參考品を借りて來て、それを複寫して分け合つたりして共に硏究した事もある。しかしその參考品と云ふのは、天然の風景、例へば瑞西の景色とか、西洋の博覽會に出た油繪の寫眞などで實際今日でみればお話にならないやうな、何でもないものだつたが、當時としては、それが珍らしく有難いものだつた。今日のやうに外國の美術雜誌などを自分で取つてみると云ふ事も出來ず、新しい智識を求めやうとすれば高島屋より外になかつたのであつた。だから當時のわれわれは、それ位に新しいものを求める心は强かつたのだつた。
 今日とちがつて、その時代、この明治二十年頃の畵家の生活狀態と云ふものは、至つてさもしい微々たるもので、さうした中から、さう云う硏究をつづけてゐたので、その眞劍味と云ふものは、今からおもふといかにも子供らしいやうにおもはれるが、それだけになかなか熱意に富んだものだつたのである。
 都路君は前からあゝ云ふ特色のある人だつた。なかなか勉强家で、高島屋の下繪などの中にも大變面白いとおもふものがなかなか澤山あつた。皆その頃は今日とちがつて、至つて無邪氣なものだつた。いろいろ當時、われわれの同時代作家も多かつたし栖鳳さんなどゝ君とは同門の友であつたが、君の家と私の家とは近かつたし、年配が等しかつた(私の方が一つ下だつた)關係から、どちらかと云ふと二人は行き來をする事は一番近かつた。
 その頃、自分は室町二條下るところに住んでゐた。この家と云ふのが、九尺二間——と云ふ至つてせまい小さなものだつたが、私がはじめて、さゝやかながらも家を持つたと云ふので、そのころ恩師森寬齋翁が、あだかも八十一歲の老齡で、多分死なれる一年前の事だつたとおもふが、その老軀をひつさげて、杖に倚り、自から旭下來鶴の圖を描かれて、わざわざ持つて來てくれられたのをいまだに覺えてゐる。これは半折でいまだに宅にある。當時私はよろこびに堪へず、揉銀の紙をもつて、粗末な表裝をしてこの新居の床にかけたものだつた。
 都路君は恩師楳嶺翁を慕ふ念の厚い人だつた。良景院華香一枝居士と云ふ戒名も、楳嶺翁から貰つた號よりなるものださうであるが、今の世の中は師を思ふのを恥のやうにおもふ傾向がある。都路君が恩師を慕ふ心の厚かつた事などは、洵に聞いてもゆかしい感がする。道義人情千古不磨であるとおもふ。
(====会場展示はここまでだったと思います===)

 明治二十四年であつたとおもふが、靑年繪畵協進會に、都路君は「鷄」を描いて出された。栖鳳さんは空也の瀧と云ふのでもないが兎に角瀧の山水、芳文さんが木曾山中私は人物畵で、黃𧘑*4平を描いた。都路君の鷄圖はごく克明に寫生の出來た固い眞面目な作品で、公開の展覽會で見た君の作品に對する最初の記憶だつたとおもふ。
 如雲社時代に及んで、君の個性と云ふものがはつきりして來た。その時代に專心藝術を磨いたのだつた。腕の完成に努力した時代だつた。だから本格的な修行をしたのだつた。寫生そのものにも懸命の努力があり、古人の筆蹟に對する硏究も怠りなく、みつちりと腕を磨いたのである。その努力のあとは、狩野風もあり、南畵風もあり、西洋風のものもあり、又光琳風の作風もあつて、その時代に本當の勉强をしておいた人は中途で崩れずにながくその聲譽を持續してゐる。
 さうして硏究してゐた三人のうち、いまは川合君と私だけになつてしまつて、何だか淋しいやうな氣がする。
 私が都路君の病氣を見舞つたときは、もう既に病重く、面會謝絕になつてゐて、子息の宇佐雄君が、床ずれがして困ると云ふてゐたが、床ずれがするやうになつてはよほど衰弱がはなはだしいと私もおもつてゐた。
 君は早くより禪學に入り、何等か心の安定を求めてゐられた。今度の死でも、その意味に於て、堂々天下に恥ざる死に方であるとおもふ。

追悼文で出てきた画家たちを生年で並べてみると

となります。
「蕐香墨蹤」には他にも多数の都路華香と(もちろん山元春挙とも)同世代及び一世代下の画家たちや美術記者などの追悼文が掲載されていました。時間の関係でちゃんとは読めませんでしたが、通しで読んでみたいとも感じました。

誤字は無いように注意しましたが、あった場合にはご容赦くださいませ、またご指摘頂ければ幸いです。

*1:山元春挙《ロッキーの雪》竹内栖鳳《ベニスの月》都路華香《吉野の桜》なお別室で「吉野の桜」の修復の様子を写したビデオが毎時30分から20分ほど放映されていました。

*2:昭和7年(1932) 編纂兼発行者 富田渓仙

*3:京都府立京都学・歴彩館

*4:「⿰衤勺」

仁和寺「三十帖冊子」、元所蔵の東寺から携帯逃亡さる(オチなし

今日「京の国宝」展へ(何度目か分かりませんが)京博まで観に行きました。今週一週間だけ展示の3作品のためです。今週を終えると京博はしばらく休館して10/9から「畠山記念館の名品展」です。今日から前売り開始です。なので平常展は来年までありません。寂しい…。



きっかけツイート

先日「京の国宝」で検索していたときに、このようなツイートを見掛けました。

出品一覧に載っている「12:京都府古社寺什宝調査録」は後期のみの出品でした。見開き展示の左ページに「名稱 聖教三十冊及筥」とあり「あ、仁和寺の三十帖冊子のことだな」と思って内容を読まずにザッと通り過ぎていました。
でも内容が面白いと書いてあればやはり気になります。ということで今回改めて読み直したところ、かなり面白かったので書き写しましたw 話は途中までしか書かれていないので続きが気になりますが、いずれ調べてみたいと思います。

翻刻

改行位置も記録したのでそのまま記します。

名稱
聖教三十冊及筥
所有者所有地
京都府葛野郡花園村大字御室 仁和寺
作者傳来
寺傳云弘法大師入唐將来品ナリシ又云此聖教丗冊其先ハ教王護
國寺の什寶ナリシカ髙野山金剛峰寺ハ大師終焉ノ地ニシテ大師將
来品手澤品*1等モ多クアレハ此聖教モ亦同寺ニ傳クヘキモノナリ
ト其譲與ヲ教王護國寺ニ迫リシモ教王護國寺ニテハ由緒ヲ述ヘ
其請ヒヲ容レサリシニ髙野山ノ某僧深ク之ヲ恨ミ教王護國寺ヲ欺
キテ借リ出シ携帯逃亡シタレハ教王護國寺ニテハ大ニ驚キ官ニ訴
ヘテ其裁断ヲ仰シニ官ニ於テハ金剛峯寺ニ對テ速ニ返戾スヘキ
*2ヲ令シ一方ニハ逃亡セシ髙野山ノ僧ノ所在ヲ穿鑿*3セシメラレシ河内

感想など

それにしても高野山の僧の論理が強引ですね。「ウチは弘法大師の終焉の地、大師由来の品も多くあるのだ。この三十帖冊子も高野山にあるべきだ!ウチに譲れ!」そりゃ東寺も嫌がりますよw しかもそのあとそれを逆恨みして「東寺を欺して借り出し、携帯して逃亡」…。
ページ終わりが「河内」になってますけど、このあと河内で何があったんでしょうね…知りたいですw

なお「京の国宝」展の図録の「23:三十帖冊子」の解説には以下のようにあります。

伝来は、附属文書である左弁官下文の写し、ならびに「三十帖策子々細」、行遍僧正の消息などに詳しい。これらによると、空海入定の際に高弟の実恵、真雅の両人に託して東寺経蔵に納めさせたが、高野山第二世座主真然が貞観十八年(876)に高野山へ持ち帰り、東寺からの再三の返却催促にも応じなかった。その後、諸処に分散して散逸したが、右大臣藤原忠平はこれを惜しみ、勅命により大僧都観賢に収集させ、その大部分をまとめることができて、延喜十九年(919)十一月、東寺の経蔵に安置して長者に守護させることとした。その後、文治二年(1186)仁和寺守覚法親王(1150〜1202)が東寺より借用して、それ以降仁和寺に伝来している。

高野山の僧(しかも座主の指示!)が借りパクした上に散逸させ、その後は仁和寺のエラい人が箱ごと借りパクしてそのまま現代まで…。昔の人は何かと乱暴ですね。

また三十帖冊子を納める箱である「24:宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱」の解説には

東宝記」には文治二年(1186)に仁和寺守覚法親王(1150〜1202)に貸し出されたまま返納されないともあり

と書いてあります。もしや「京の国宝」展の別室に「55:東宝記」が展示してあったのはこのこともあったのかしら(ちゃんと読んでない…)。

いろいろと面白かったです。ハイ。

*1:手沢:手あかで出たつや。転じて、身近に置いて愛用した物。(大辞林第四版)

*2:「旨」の俗字

*3:せんさく:細かい点までうるさく尋ねて知ろうとすること。/細かいところまで十分調べること。(大辞林第四版)