子子子子子子(ねこのここねこ)はてブロ部

Macネタが主のIT記事と、興味ある展覧会リストや観覧感想などを書いてますよ。自転車ロードレースも好き。

須田国太郎展

2/3までの展覧会です。終了一週前の1/27に訪問しました。
結論だけ先に述べますが、予想外に面白い展覧会でした。
観覧前の印象は「黒っぽい絵を描く洋画家」でしたが、観覧後は「画面に深さを作る画家」そして「スペインの赤土フィルタのサングラスを掛けた画家(笑)」になりました。
ところで。この展覧会はかなり巡回していたのだけど、京都周辺の風景が多い画家についてこれるのは京都周辺の住人だけじゃ無いのか?と心配になった。もちろん別の楽しみが有るとは思いますけど。

第一章:渡欧前の学生/院生時代

裕福な家だったこともあり、大正時代なのに大学院まで行っている。京都帝大・美学美術史の深田康算研究室に所属する研究者であって画家では無い。

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八坂の塔(1915年/大正4年

爽やかな気持ちよい絵。ということもあるが、今では家だらけのこの場所が緑豊かであることに驚いた(笑)。

第二章:渡欧していた時期の模写・写生

絵を研究するのに最も良い方法は模写だ、ということでプラド美術館などを中心に模写を行っていた。

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/tayori/2012/tayori_09/img/mosya01.jpg
ティツィアーノ《ヴィナスとオルガン奏者》模写(1919年/大正8年

ティツィアーノなのにタッチが荒いのが気になる絵(笑)。でもやはり大事なのは構図や色合いなのでしょう。

第三章:帰国〜個展開催〜戦争

留学して帰国するも、基本的には研究者。でも徐々に画家として歩み始める。

http://jto.s3.amazonaws.com/wp-content/uploads/2013/01/fa20130103a1c.jpg
早春(1934年/昭和9年

京都市美術館の前身である「大礼記念京都美術館」(開館記念展だとか)の公募展「大礼記念京都美術館展」に出品された作品。
宇治川天ヶ瀬ダム附近の風景。
少し高台から渓谷を横切る視線なので、宇治川を挟んで手前と対岸とでえぐるように斜面が交差する。宇治川へ進んだ視線が、対岸に屹立する山によって上へ押し上げられる。と共に中心にある樹によって視線が遮られる。
画中でいろいろとさまよえる作品。

第四章:山の風景

スペインの風景に馴染んだらしく、日本でも山の風景を多く描いたようです。なので山の章があります。

http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momak/156292-01.jpg
城南の春(1933年/昭和8年)(国立美術館提供の画像なので色チャートが付いてます)

木津川の対岸から望んだ京都府井手町の村落とその後ろの大焼山が描かれています。玉水橋の西詰め辺りじゃないかと思いつつ観ていました(木津川の自転車道を走っていれば見かける光景(笑))。
木津川の手前のガードレールを描くことで、絵の中の深さを生んでいます。

第五章:動物と花

鹿ヶ谷から(借家を追い出され)南禅寺の近くへ引っ越ししたことで京都市動物園の近所に住まうことになり、動物園へ通って動物の絵を描いたとのこと。

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対話(鴨とはげこう)(1951年/昭和26年)

この横に大阪市美所蔵の「水禽」(1951年)という、逆光の檻越しの鴨とはげこうじゃないかと思われる絵が並べられていたのが面白かった。シルエットクイズとその正解という感じでした(笑)。

第六章:人里の風景

独立美術協会の教授旅行の旅先で描いた絵などが並んでいました。

http://aboutart.blog.ocn.ne.jp/blog/images/2012/05/26/1_3_img004.jpg
工場地帯(1936年/昭和11年

画面奧から流れ出てくる宇治川と左手から画面を横切る山科川とが合流する風景。
位置は京阪バス伊賀団地バス停留所辺り(笑)。手前を走る電車の線路は京阪です。単線っぽく見えますが複線のはずなのです。そして山科川の向こうに広がる工場は、どうやら日本製布会社の伏見工場らしいです。なお、現在は全て住宅地になってます。
手前の工場が暗く、そして奧の山地が明るく描かれており、爽やかな気配を感じられます。そして画面奧への広がりも感じられます。

と一通り見た後に、ギャラリートークがあるとのことで、暫く待っていました。
(ギャラリートークは別項目にしましょう)

須田国太郎展ギャラリートークのメモ

京都市美術館学芸課長の尾崎眞人氏によるギャラリートークのメモ。
(予備知識が足りなかったため、さすがに全てはメモできてません。no付きは出品作について。図はそのうち入れる…かも)

渡欧

京都洋画壇

美術史を学ぶために渡欧。スペイン王バロックヴェネツィア派(例:ティントレット)を擁護。他の画家と異なり古典を学ぶ。印象派の色の並列法ではなく、それ以前の重層法を学ぶ。
模写による学習。テンペラ下地が乾くのに数日かかるため、その待ち期間を使って近辺へ小旅行。スペインの街の構造(城塞都市)やスペイン風景を知る。

no.25 発掘

大学の美学の恩師の深田康算が(1928年/昭和3年に)亡くなったので肖像画を描き、その次に描いた作品。帝展へ初めて応募した(落選)。画家としてやっていくきっかけとしての応募。
下図では馬の脚元に発掘土砂を運ぶ二人を描いているが本画には無い。脚元の二人を描くと、前景の馬との落差が強調されるが、後景の奥行が弱められる。のでカット。前景をシルエットとすることで、後景が重要だと示す。印象派のように全てを描くのではなく、大事なものが目立つように描く。前景と後景との関係から新たなドラマを生み出す。すなわち『絵空事

no29 法観寺塔婆

いわゆる八坂の塔。市電から見た時の印象を再現するため、近くの蕎麦屋2階から見た。電信柱が明るく、八坂の塔に対して卒塔婆のように見えた。

個展

初個展を銀座資生堂ギャラリーで行った。しかし京都ではなく東京なので、知らない画家の作品だとして受け入れられず。しかし独立美術協会の里見勝蔵が絶賛、協会員を連れていくとともに、国太郎を協会へ引き入れる。
昭和8年、独立美術京都研究所の講師になる。この研究所は津田青楓(プロレタリア画家)の画家活動停止により彼の画塾に所属の画家たちの行き先として設けられた。

山を沢山描いた。山はその原形が分かる冬に描いた。

no.75 海亀

動物園で狭い場所に押し込められている海亀をみてかわいそうになり描いた。

no.88 犬

犬と家。別の場所にあったものを組み合わせて物語を作る。

芸術院会員

この前年、在野からは異例となる芸術院会員推挙を受けるが、独立美術協会員からは辞去すべしとの意見もあった。本人は卒業証書のつもりで貰った。

no.72 鉱山

病床で描いた。後景の山の輝きと、前景の人の眠る住宅地の暗闇との対比

風景画

戦後、独立美術協会の講師として西日本各地へ旅行する。息子さんを連れて国鉄で移動。(後に息子さんは国鉄職員に。)