子子子子子子(ねこのここねこ)はてブロ部

Macネタが主のIT記事と、興味ある展覧会リストや観覧感想などを書いてますよ。自転車ロードレースも好き。

伊藤潔「台湾」(中公新書1144)

日本領になるまでの台湾史を知りたく、1993年8月刊のこの本を手に取った。

台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

日本が台湾を占領するのは日清戦争後の1895年。先住民はもちろんのこと中国本土からの移住民であっても、自らで国家を為したことはなく、近年の民主化によりようやく台湾住民による「国家」が成立したのだと分かる。
台湾という「国家」が今後どうなるかは全く分からないが、少なくとも日本に比べて自らで民主主義を勝ち取った場所なので、中国本土の共産党政権に単純に吸収されることはあり得ない。望むらくはこのまま独立国家になることを。

さて、この本が出版される直前の台湾史というと、1986年民進党結成、1987年戒厳令解除、1988年蔣経国急死に伴い副総統の李登輝が総統就任し更に1990年第8期総統に就任、1992年総選挙、と民主化が急速に進展している時期。
なおもちろん香港返還前。中国が民主主義を認めない香港・マカオでの一国二制度を台湾に適用できないのは明らか、としており、香港で現在(2019年)行われている民主化運動にも関係する内容が「今後の課題」として記されている。余談。

有史前(序章)

台湾の西にある澎湖諸島には元代に巡検使が置かれ、台湾を巣窟としたであろう倭寇を防いでいた。基本的に台湾海峡は流れが速く、大陸との流通は無かった。しかし明代の1388年に巡検使を廃止して澎湖諸島を放棄。その後大きく時代が下って1603年、貿易拠点を探していたオランダがバタビアから澎湖島に上陸した。一旦は明に追い払われるも1622年に占領。明とオランダの攻防があった後、1624年に明はオランダに澎湖諸島撤退を条件に台湾占領を認めた。
明王朝がかくも簡単に、オランダの台湾島占領と領有に同意したのは、もともとこの地を領土とは見なしていなかったからにほかならない。』(序章p.9)

オランダ占領下(第一章)

オランダは1624年に台湾島南部の安平に上陸、ゼーランジャ城(安平古堡)、続いて赤嵌にプロビンシャ城(赤嵌楼)を構築。先住民および中国からの移住民を支配した。
一方、台湾島北部ではスペインが1626年に基隆に上陸しサンサルバドル要塞を、1628年に淡水にサンドミンゴ要塞(紅毛城)を築いた。しかし中継貿易も日本でのカトリック布教も上手くいかず、占領要員は先住民襲撃やマラリアなどで倒れた。1638年にサンドミンゴ要塞から撤退。1642年にオランダは基隆を陥落し、北部にも占領地域を拡げた。

鄭成功などによる「反清復明」政権下(第二章)

清国により明王朝の命運尽きようとする1628年、明は海賊の頭領の鄭芝竜を招いた。が、やはり負け続き。1645年に福州にて擁立された隆武帝は、鄭芝竜と日本人の妻との間に生まれた息子に、国姓「朱」と名前「成功」を与えた。これが「国性爺・鄭成功」の由来。しかしその後も清軍に追われ、明王朝最期の皇帝永暦帝も1661年に没する。
鄭成功厦門と金門のみに追い込まれた。そのときに台湾侵攻を勧める者に従って澎湖諸島を、次いで赤嵌のプロビンシャ城を攻め、1662年に攻め落とした。これによりオランダ38年の台湾支配に終止符がうたれた。
しかし鄭成功はその後すぐ亡くなり、長男の鄭経が後を継いだ。政策は同じく「反清復明」であり、軍事政権が続いたため台湾住民を苦しめた。なお鄭成功は移住民に「開山王」と崇められ、その人気はまた日本にもおよび、近松門左衛門国性爺合戦」の上演でも有名である。
清国は海上封鎖の政策を取った。のだが、中国との密貿易が拡大し、貿易利益増大に繋がった。また封鎖政策に苦しむ沿海民が台湾へ移住することも促した。
しかし鄭氏政権の徴税はオランダ時代よりも激烈で、住民は鄭氏政権を見限るようになった。清王朝は降伏してきた者を受け入れる「修来館」を1679年に開設したところ、条件が良いために鄭氏政権を裏切る者が続出し、鄭氏政権の崩壊へと繋がった。

清国領有時(第三章)

清王朝は鄭氏政権を裏切った施琅を雇い入れ、1683年7月に施琅は一週間で澎湖諸島を占領、捕虜を台湾へ戻して流言飛語を放つと鄭氏政権がパニックに陥った。これにより鄭氏政権は同年9月に無条件降伏し、清国が台湾を領有することになった。
清王朝としては台湾領有に消極的であった。施琅は台湾領有により澎湖諸島や中国沿海の安全保障のために領有すべきと上奏、当時の皇帝である康熙帝がその上奏を受け容れた。
その後清王朝は212年に渡り台湾を領有することになった。だが領有すると元の移住民十数万人を中国へ強制引き揚げさせ、基本的に移住民は全て原籍地に送還することとした。台湾への移民どころか渡航も厳しく制限され、家族呼び寄せも禁止された。余談だが、なぜか広東省住民は渡航禁止となり、客家の移住が閩南の泉州・漳州住民の移住に比べて大きく遅れを取った。
また台湾島内では、移住民に対して先住民の居住地域へ入植することを禁じる「封山令」を取った。これは先住民保護ではなく、移住民が先住民地域に逃げ込んだり、両者が結託して反乱を起こすことを避けるためだった。また移住民と先住民との交流や通婚を禁じた。が、当然ながらこれらの規則は徐々に有名無実化していき、台湾の開発が緩やかながらも進んでいくのだった。
台湾では「五年一大乱、三年一小乱」と言われるほど武力蜂起が生じた。そのほとんどは移住民によるものだったが、先住民によるものもあった。ただし先住民は多くの部族に分かれるために結束力が弱く、全面的な蜂起に発展することはなかった。他方、移住民も閩南系(漳州系と泉州系)と客家系とで互いに対立することもあり、反乱の結束力を低めると共に清国統治を容易にするものとなった。
移住民と先住民女性との婚姻は禁止されていたが現実には多く、そのため平地在住の先住民の人口増加率が抑えられ、移住民人口が増加していった。かつて台湾では「有唐山公、無唐山媽(中国人の祖父はいても中国人の祖母はいない)」と言われた。一方、清国政府は先住民に対して漢字を教えて漢民族価値観を教化し、また漢民族の苗字を「賜姓」していった。
阿片戦争の最中の1841年、イギリス艦隊が攻めてきた。また1854年には日本からの帰途にあるベリー率いるアメリカ艦隊が基隆港に停泊して調査していき、帰国後に極東貿易の拠点として占領することを主張した。
1856年にアロー号事件、1858年に天津条約が結ばれたことにより、清国政府は台湾の主要港を1864年までに相次いで開港し、キリスト教布教も認めた。これにより台湾は欧米列強に開放された。
1871年宮古島住民が台湾南部に漂着して大半がその先住民に殺害される「牡丹社事件」があった。日本はこの事件を利用し、1873年に台湾南部へ出兵し占領した。日本は清国政府と「北京専約」を結び、清国が日本へ50万両と弔慰金10万両を支払い、日本が台湾から撤兵し、さらに琉球の日本帰属を間接的に認めさせた。この事件などにより、清国政府は台湾政策を積極化せざるを得なくなった。
他の列強諸国も清国領土を狙っていた。フランスは清仏戦争中の1884年に基隆や淡水を攻撃して台湾北部の占領を図ったが果たせず、防衛力の弱い澎湖諸島を攻めて1885年に占領した。ベトナムがフランス保護領となる前提で停戦が合意されたことから、フランスは澎湖諸島から撤兵した。
この事態から台湾の重要性を認識した清国政府は1885年に台湾を省に格上げし、初代巡撫に任命された劉銘伝は独立採算の政策を実行した。しかし劉銘伝が病気を理由に1891年に台湾を去ると、この改革は半ばで頓挫した。その後、1894年に首府が台南から台北へ移された。

日本占領直前期(第四章)

朝鮮独立を巡って日清両国は1894年8月1日に戦端を開いた。その年末、勝利を見越し、日本政府は講和内容に台湾割譲を入れるようまとまり、講和会議の最中に澎湖諸島を占領して清国政府の台湾支援を封じた。一方、イギリス政府やフランス政府は日本による台湾占領を阻止しようとした。しかし1895年4月17日に調印された日清講和条約には台湾と澎湖諸島の割譲が含まれた。台湾住民はフランス政府による独立支援に望みを掛け、1895年5月23日に「台湾民主国独立宣言」が布告された。総統に台湾州巡撫を据えたが、翌6月4日には淡水から厦門へ逃走した。他方、日本は5月29日に台湾北東部へ上陸、7日に台北、9日に淡水を占領した。日本軍の南部への侵攻は難航したが、残存していた台湾民主国の指導者が5ヶ月後の10月19日に脱出、10月21日には台南への無血入城を果たし、台湾全島の占領を完了した。ただし反乱ゲリラは当然ながら残存していた。