否定意見を先に見かけてしまった
私、大観は好きな方です。なのですが、観に行く前に見かけたいろいろな人のツイートが総じて否定的だったのがとても気になったのです。
近美の横山大観展。予想とは違って、とても残酷な展覧会だった。大観の下手さ、アイディアの凡庸さ、そして晩年になるにつれ、みるみる枯れてゆく才能。やろうと思えばもう少し大観を「立てる」こともできたはずで、おそらく半ば意図的に、そう構成されている。
— 黒瀬陽平 (@kaichoo) 2018年4月20日
東京国立近代美術館『横山大観展』は会場内の混雑にびっくり。しかし自分のように横山大観があまり好きでない人にこそ見て欲しい。一点だけ見ると下手…で終わる作品、周囲から漏れ聞こえる感想も聴きながら時代を追ってじっくり観察して行くと、なぜ大観がそんなに人気があるのかなんとなく解ってくる pic.twitter.com/N4Y7vIiLIu
— 在華坊 (@zaikabou) 2018年5月4日
センスの感じられない琳派風の構図、迷いしか無い筆運び、立体感の感じられない描写…古典から西洋画まであらゆる技法に学び絵に反映し近代日本画の先駆となった横山大観の、しかしそれにしても下手…としか思えない絵画の数々が、たくさんの数を並べて見ることで、なんだか愛おしくなってくるのだ…
— 在華坊 (@zaikabou) 2018年5月4日
迷いの無い筆運びで素晴らしい構図で描かれる日本画のそれが、上手いなぁ、良いなぁ、としか言いようが無いのに比べて、横山大観の絵は何をどう努力しているか、それでも駄目なものは駄目なのか、非常によく分かるのである。そして、それを語りたくなる。横山大観、生粋のコンテンツである
— 在華坊 (@zaikabou) 2018年5月4日
今回の展覧会のキャプションも、絵の評価をあまりせず、斬新であるとか、心情をよく表しているとか(それは迷える近代日本のそれの表現として)、終いには墨はとても高級なものを使ったとか、褒めているようでちっとも褒めていない内容も多く、それも見どころのひとつになっている
— 在華坊 (@zaikabou) 2018年5月4日
東京国立近代美術館で「横山大観展」。押しも押されもしない巨匠とされる大観の純度100%の空間に入り込むと、その絵の"普通さ"に驚かされる奇妙な展覧会。個性を重視したという大正期、あるいは大観を巨匠たらしめた時勢と、彼を取り巻く「時代」への興味がむくむくと湧き上がってくる。 #Bura_Bi_Now pic.twitter.com/jB36nF2caA
— 黒織部 (@kurooribe) 2018年5月11日
足立の紅葉と大倉の夜桜が並んで見られるゴージャス☆な展示。
— 田島達也 (@tajimaxG) 2018年6月15日
そのほかも有名作品の嵐で眼福。
でもなんだろう、今ひとつ心踊らない感じ。大観の絵は狙いや研究がそのまま絵に現れていて、知識と論理による理解を裏切ってくれないからかな。 pic.twitter.com/Km4TjggDCp
【artscape 2018年06月01日号(artscapeレビュー)】生誕150年 横山大観展|村田真 https://t.co/dBx1swrkQN
— artscapeJP (@artscapeJP) 2018年6月7日
横山大観といえば近代日本を代表する画家であり、国民画家といっていい。…日本画という形式を確立させた功績は大きい。展覧会の構成も「明治」「大正」「昭和」と単純明快な分け方だ。絵そのものもわかりやすい。…富士にしろ桜にしろ四季の風景にしろ、見たまんま、なんの裏もない。
…グローバルというより節操がないのかもしれない。これは芸術家にとって重要な気質だ。全長40メートルを超す《生々流転》などは、長大さで目を引こうというスタンドプレイだろう。…大観の行為は戦時下における芸術家の模範的役割を示すと同時に、国民に対する愛国精神のアピールにもなったはず。…まあ残された作品より、近代日本の広告塔としての役割のほうが大きかった画家ではないかと思った。
生誕150年 横山大観展:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape
もちろん否定的ではない意見もあります。
横山大観展、思ってたのより数段よかった。
— デリカシーゼロ太郎 (@nonkhsora) 2018年5月4日
とはいえ、なんだか否定的な前評判を受けてから行くのは変な先入観が付いていてちょっとやだなーと思いつつ、京近美での前期最終日に足を運んだのでした。展覧会としてだと、名作誕生展より横山大観展のがよっぽど面白かった。
— デリカシーゼロ太郎 (@nonkhsora) 2018年5月4日
大観してくる。前期最終日。 (@ 京都国立近代美術館 in 京都市, 京都府) https://t.co/jJnc7RF9CJ pic.twitter.com/9sYsudXntn
— りおかんぽす @ 大阪 (@riocampos) 2018年7月1日
会場にて
想像以上の入館者数に驚き。ショップも大盛況。会場へ上がるエレベーターへの長い行列。列ぶのが面倒なので横の階段を3階まで登る。そして会場も大盛況。
日本画の展覧会、特に院展系の展覧会には日参しているので、個人蔵ではない今回の出展作品はだいたい以前に観たことがある。とはいえ、今回の展示の照明が明るいのか、以前見た作品も見やすく感じた。
大観の作品でいつも思うこと、動物が人っぽく、人が人形っぽい、今回もやはりそれを再確認した。
数十年ぶりに発見されたとのうわさで知っていた白衣観音、目がおかしい。
とはいえ人物画家ではないのだからそれは置いておけば良いのだ。否定からでは無く、良さを評価したい。
大観の表現で好きなのは、雨や空気などを表現する墨の色。その陰があるからこそ、他の部分が光り輝く。
絵の中は全て静止している。動きがない。だが見えない空気は動いている。雨も轟々と大地や水面へ降り注いでいる。つまり、大観はこの湿度の多い東アジアを描く画家なのだ。
見終えて
会場に居る人たちは、普段の日本画展と比較しても年齢層がとても幅広い。そして小難しい顔をして観ている人は少なく、楽しげである。展覧会の出口では「ああ楽しかった^^」という雰囲気を醸し出して出ていく人々ばかりである。
では、最初に掲げた人々はなぜ大観に対して否定的だったのか。それはやはり「国民画家」である大観の辛さではなかろうか。
例えばブラジルでは全ての人たちがサッカーの監督である。それは国民スポーツへの愛ゆえである。それゆえ自分の想いと異なっているものには否定的にならざるを得ない。しかし全ての国民がサッカー代表チームを愛している。
翻って日本における「国民画家」大観に対して。目を見張るほど細密描写が描けるわけではない。上にも書いたように、人物描写は稚拙である。動物をそのまま描くのでは無く、なぜか擬人化して描くことが多い。しかし、やはりそれは画家への愛ゆえに否定が先行してしまうのだ。つまり、やはり基本的にみんな大観が大好きなのだ。
と勝手に納得して筆を擱くことにする。