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女性画家の大阪 ─美人画と前衛の20世紀─@大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室

ようやく今日になって観に行けた。もう前期の最終日である。平日の会場はやはり空いており、ゆったりと観ることができた。

そう、大正から昭和にかけて、大阪は東京・京都と並ぶ美術都市であり、しかも女流画家が活躍したのだ。代表格は島成園。京都の上村松園、東京の池田蕉園と並んで「閨秀三園」などと呼ばれたりしたのだった。
大阪市立近代美術館展覧会 女性画家の大阪 ─美人画と前衛の20世紀─@大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室<'08/9/20-12/7> - 子子子子子子(ねこのここねこ)

などと分かったような口をきいていたのだが、実は成園をあまり観たことがない。それに今まで観ていたとしても自分自身の中ではさほど分かっていないのだ。
ということで、今回の企画展では他の女性画家との比較ができるのでありがたいなぁ、と思って観に来たのだった。

さて、展覧会全体の感想だが、戦前の日本画家と戦後の抽象芸術家とを女性という性別で括って展示しているので、その断絶を大きく感じた。別の展覧会として分けるべきだと思うのだが、これはこれで小企画としてありなのかもしれない。(学芸員も、今回は小展覧会で、本格的なものは近代美術館開館後だ、と記載されていた。早く実現してほしいですよ。)
やはり2006年2月に大阪高島屋で行われた「島成園と浪華の女性画家」展に行くべきだったのだろう…。あれを観に行かなかったのはやはり失敗だった。

地下鉄で難波に出て高島屋に行った。この展覧会は大阪のみの開催だったようだが、なかなか見応えがあった。本来ならば公的な美術館が開催すべき意欲的なもので、百貨店での展覧会も侮れない。
●『島成園と浪華の女性画家展』 : ゆうゆうゆうぜん歩録(美術や音楽、夢日記などの六味感想戀態思惑歩録)

図録は出版されているので、入手すべきか。
(版元民事再生手続のため入手困難かも…大阪・東方出版が民事再生へ(2008/10/21) | 新文化 - 出版業界紙

島成園と浪華の女性画家

島成園と浪華の女性画家

ということで、今回の感想は戦前の日本画作家を中心にさせていただく。
まず成園。なにやらデロリとした印象。さすがに甲斐庄楠音ほどではないが。自画像と言われ「求婚広告」と揶揄された『無題』↓は、画家の気の強さとアクの強さが表に出ており、個性的なものになっている。成園と比するために松園・蕉園(どちらも「しょうえん」なのだ)も並べられていた。松園は説明する必要も無いが、静謐な美人画を描く第一人者である。描かれる対象は大人の女性の印象が強い。一方、蕉園は、若い女性を柔らかく生き生きと描いている、がキツく言うと、絵に魅力がない。ぼんやりしている。
この三園では、年長の松園が飛び抜けて巧い。実のところ『三都三園』と並べるのは憚られる。松園当人からも

東京にも大阪にも園、園と沢山に似交つた雅号の作家が出る様な有様であります

と厳しい発言があったようだ。
しかし、成園は松園と全く違う画風なので、比較しようがない。成園ファンはわりと多いのじゃないかとも思う。
それはさておき。
そう、大阪のほかの女性画家について。
不勉強で申し訳ないのだが、他の画家は名も知らなかった。しかし、その中でも必ず挙げるべき名は、木谷(吉岡)千種と生田花朝であろう。千種は作品ももちろん良い(が今回の展示では全容が分からないので略す)が、教育者として多数の弟子を生んだことを特筆すべき。弟子の雅号には「千」が付くので分かりやすい。(ちなみに成園も画塾を開いており、弟子の雅号には「成」が付く。)生田花朝は四天王寺のお祭りを描いた大作が掲げてあったが、のびやかな画風でとても良かった。女性として初めて帝展特選を受けたのだそうだ。

その他の作家について印象を列記していく。
吉岡美枝と橋本花乃は、どちらも小倉遊亀の初期のような作品で、私好みであった。解説には「昭和初期の新古典主義的な画風」と書かれていた。「新古典主義」を調べておかねば。
鳥居道枝は、現代にも居そうな少女を描いた、癖のある作品が出品されていた。おもしろい。かなり気になる。
三露千萩・千鈴の母子も良い。雅号から分かるように千種の画塾に属していた。娘の千鈴は、とても優しげな気配を持っており、観ていて心落ち着く。

最後に。これら女性画家たちは美人画ばかり描いている。その他の画題へ進まなかったのはなぜか。要因の一つとしては、女性教養の一環としての美術教育からこれらの画家たちが出てきたということに依拠しているのかもしれない。女性画家のほとんどが裕福な家庭に生まれ育っている。また結婚を機に筆を断っている画家も少なくない。周囲の視線も「所詮は女の遊びだ」となってしまっている。画家たちもその視線に立ち向かうこともなく過ごししたため、従来から『閨秀画家』が選んできた画題をそのまま描いてきた、ということか。もちろんそれによって彼女たちの作品価値が貶められるわけではないのだが、しかしもう少し先へ進めなかったことが、大阪の女性日本画作家が戦後へ続かなかった要因となったのかもしれない。
絵画が裕福な女性向け教養の一環であった、というのは、印象派ベルト・モリゾが育ってきた環境にもつながる。洋の東西を問わず、富裕層の結婚前の女性にそのような素養が求められた、ということか、それとも西洋の影響を日本が受けたのか、気になる点である。