話の枕
内田樹(敬称略)は最近よくメディアに露出している気がする。何となく「東の姜尚中、西の内田樹」ってなイメージ。
しかし私の中では雑誌「Meets Regional」に面白いエッセイを書いていたセンセ、という認識を越えていない。いや否定的に書いてるわけじゃなく、好きなんだけど、まだ著作は買ってません。すみません。
批評について
私の知る限り、論争において、ほんとうに読む価値のあるテクストは「問題のテクスト」と「それへの批判」の二つだけである。それ以後に書かれたものは反批判も再批判もひっくるめて、クオリティにおいて、最初の二つを超えることがない(だんだんヒステリックになって、書けば書くほど品下るだけである)。
このあたりは先日の「日本語が亡びるとき」論争を思い出す。
- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/05
- メディア: 単行本
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そして、私はこの本に対しては同意も不同意も両面あるので、まだ自分の立場を確立できずにいる。ただ、水村氏にはベネディクト・アンダーソンを教えてもらったということで感謝している。まだこれしか読めてないけどorz。
ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)
- 作者: 梅森直之
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/05/17
- メディア: 新書
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…うーむ、書いていること全てが脱線している気がする。(論争と一般の文章とをごちゃまぜにしてはまずいか。まずいな。でも、まーいいや。)
本編
とりあえず私の場合、書物を刊行したり、論文を書いたりするのは、一人でも多くの人に読んで欲しいからであり、一円でも多くの金が欲しいからではない。
こちらからお金を払っても申し上げたいことがあるので、本を書いているのである。
:
もし著作物が一人でも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのが本当なら、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。
と言われて「はい」と納得できる書き手がいるであろうか。
単なる金儲け権としてしか著作権を見ていない利益者団体には、このあたりのことが分からないかもしれない。また「職業作家」達も、承服しかねるかもしれない。
私の感覚では、利益者団体というのは、その存在に無理があったりする気がする。図書館でコピーしたときに、一部手数料(複写使用料)が公益社団法人日本複製権センター(JRRC)を経て著作者団体(という言い方をするのか、初めて知った)に渡る*1のだが、本当に、適切に、正しく、その著作者に渡っているのか?という疑問がずーっとある。単に著作者団体を維持する費用に用いられているだけじゃないのか?と疑念を持っている。この団体は本当に役立っているのだろうか。
脱線したが元に戻る。
たしかに著作権は独占権である。使用する者から対価を受け取る権利である。しかし、誰にも見られず、使われることのない著作物は無用の長物以下である。
立ち読みできない書店は儲からないのである。そして立ち読みされない本は売れないのである。
ある程度の信頼を得た著作物は容易に権利を行使できる。しかし、そうじゃない著作物で且つ内容(品質)確認も出来ないものは、いくら対価を要求してもその対価を得ることは出来ない。
「内容確認の自由」は必要であり、これを認めないならばそれは著作者自身の首を絞めていることになるのだ。
もし物を書く人間に栄光があるとすれば、それはできるだけ多くの読者によって「それを書架に置くことが私の個人的な趣味のよさと知的卓越性を表示する本」に選ばれることであろう。
「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている。
「この本をぜひ私有して書架に置きたい」と思わせることができるかどうか、物書きの力量はそこで試される。
原理的に言えば、「無償で読む読者」が増えれば増えるほど、「有償で読む読者」予備軍は増えるだろう。
だから、ネット上で無償で読める読者が一気に増えることがどうして「著作権者の不利」にみなされるのか、私にはその理路が見えないのである。
ネット上で1ページ読んだだけで、「作品の全体」を読んだ気になって、「これなら買う必要がない」と判断した人がいて、そのせいで著作権者に入るべき金が目減りしたとしても、それは読者の責任でもシステムの責任でもなく、「作品」の責任である。
そう考えることがどうして許されないのか。
強く同意する。
『「無償で読む読者」が増えれば増えるほど、「有償で読む読者」予備軍は増える』はずである。
また、上で、立ち読みによる「内容確認の自由」権を主張したが、大規模書店が近くにない大多数の人たちにとって、その権利は失われているのだ。この権利が保障されていないと、安心して著作物を購入できない、と感じる人は少なくないと思う。書評だけでは信頼できない。
よって、amazon.co.jpやGoogleによる書籍検索を、さらに大規模に行えるようにすべきだ。
とはいうものの
興味のある本であっても図書館だけで済ませる人もたくさん居ますけどね。
ラジオで作家が出てきたときに、「大ファンです!著作は図書館で全て読んでいます!」とか「図書館で予約待ちがたくさん居ますよ!」とメッセージを送ってくるリスナーが居たりする。作家自身はどう感じているのか、気になります。
作家も儲けなければいけないし。
でもなんだか出版社が出版売り上げの大半を中間搾取している気もしたり。もちろん出版社が介在することで質の制御が為されているのは分かっているのだけど。
…ぐだぐだな文章になってしまった。いつものことだがorz。
p.s.
本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。
購入して所有しただけで、その内容全てをも所有した気分になってしまう私は、一読者ではなく一購入者に過ぎない。反省。