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岩佐美代子の眼―古典はこんなにおもしろい

以下の記事の続き。長文になったので&区切りが付かず書き進められなかったのではてブに移しました。

本はこちら。

岩佐美代子の眼―古典はこんなにおもしろい

岩佐美代子の眼―古典はこんなにおもしろい

  • 発売日: 2010/03/01
  • メディア: 単行本

感想文のようなもの(booklogに書いた部分)

今年2020/1/17に亡くなられた、和歌研究家の岩佐美代子氏への2005年の聞き書き記録。
正直なところ和歌研究に無知な私は全く存じ上げない先生なのですが、この本を褒めるツイートがおくやみ報道時に相次いだため、少し興味を持ちました。

この本でいちばん興味を持った一文は「第七章 セクハラ裁判支援」の中の文。これは鶴見大学退官後に「清泉女子大学セクハラ事件裁判」の原告(二次セクハラ被害者)を支援しておられたときに、原告への対応方針として語った部分。

「私は今までの経験で、困った事を自分で解決してきて、見に染みて思っていたのはね、何によらず困った時に、一番欲しい人は、まずこちらが、「こういう風にして下さい」と言ったら、その通り正確に早くやってくれる人。それともう一つは、黙って入り用な時に、お金を出してくれる人。それからもう一つ言えば、何でも文句言わずに、「そうかそうか」と聞いてくれる人ね。」(p. 152)

ということで、原告からの電話があったらいつ何時であろうと話を聞いて、自分の意見は言わずに「そうかそうか」に徹したのだそうです。そうするとこうなる。

「ただ、本人が口に出して言うと、自分でその間に考えがまとまる。何にも私が言わなくても、最後に「ああそうか、こうすればいいんだわ」と向こうが言うんです。そこまで聞いてあげる。それが、一時間以内では駄目。絶対、一時間と四分。一時間四分聞いてあげればそこまで行く。(中略)無責任なようで、実はとても疲れる仕事ですが。」(p. 153)

聞いていて、本当に聞くことだけに徹するのは、とてもとても大変だと思います。
余談ですが、清泉女子大学にそのような事件があったことはこの本で初めて知りました。原告の方(秦澄美枝氏)はこの事件に関連した本を3冊書いておられるとのことなので、そちらもいつか読んでみたいと思います。

岩佐美代子先生について

岩佐先生は大正15年生まれ。戦争中に女学生時代(女子学習院)を過ごされました。当然ながら時代は南朝重視の風潮。そのために北朝に関連する勅撰和歌集である「玉葉和歌集」「風雅和歌集」などは知られることもなかった(それどころか無視されていた)のだけど、女子学習院高等部に講師として来られた久松潜一先生から「風雅集」掲載の永福門院の歌を教わったときに「何てやさしい、きれいな歌だろう」とびっくりし、後々にこれらの和歌集に関する和歌流派「京極派」を研究するようになったのだそうです。
研究開始はご主人(岩佐潔:厚生省医系技官で人間ドック発案)の米国留学の時期に余裕が出来たことがきっかけ。岩波文庫玉葉和歌集」を参考にして永福門院について書き始めたと。
子どもの頃から父親(穂積重遠:法学者。東宮大夫最高裁判事にも)に論語を初めとした教育を受け、またずっと女子学習院で教わったため、和歌などの素養を備えていたものの、女子学習院学習院と全く違うため出身校が存在しない状況で、基本的にはどこの学校にも属さず独学で研究したと。後に女性研究者の仕事の調査で「論文にレフェリーのあるのが幾つあるか」とあり「審査がない論文なんてあるの?」と驚いたとか。
ご主人が亡くなられてから収入がなくなり困っていたところに国会図書館で非常勤で働き、その後に立教大学の非常勤講師、さらには鶴見大学で常勤職に就いたと。大学で勉強していないのに鶴見大学で「国文学概論」を講義しろと言われ、高群逸枝(詩人・女性史研究家)の「日本婚姻史」をテキストにして文学と結婚の話をしたのだそうです。なおこの聞き書きでは高群逸枝についても一章設けてあります。

「京極派」についてのこと

上記したように、北朝側の勅撰集であった「玉葉和歌集」「風雅和歌集」は戦中に完全に無視されていた。その事に対する義憤を感じて岩佐先生はこれらを研究しだした面もあるそうです。それ以前に歌がキレイという感動の面もあるようです。

まずは系図(第四章「なぜ玉葉・風雅・中世日記文学を研究したか」p. 96 から引用)。

道家系図


道長─長家─(二代略)─俊成─定家─為家┬為氏─為世(二条家)…大覚寺統に接近
  (御子左家)            ├為教─為兼(京極家)…持明院統に接近
                    └為相(冷泉家)…………鎌倉幕府に接近
皇室系図(数字は代、N付き数字は北朝

     (持明院統)                (伏見宮祖) (後崇光院)
後嵯峨88┬後深草89─伏見92┬後伏見93┬光厳N1┬崇光N3─(栄仁親王)─(貞成親王)─後花園102─後土御門103
    │        └花園95 └光明N2└後光厳N4─後円融N5─後小松100─称光101
    │(大覚寺統)                       ↑
    └亀山90─後宇多91┬後二条94─(邦良親王)┌長慶98      │
             └後醍醐96─後村上97─┴後亀山99┈┈┈┈┈┘
歌の家は俊成・定家・為家と続いて、為家の子たち、為氏と(実弟の)為教とが特に仲が悪い。それがその息子たち為世と為兼とも対立した。為氏と為世は保守派、為教はともかくとして為兼は対抗意識から革新派になった。その革新とはどういうことかと言えば

「それまでの和歌というものは、決まった通りの言葉を使って、お行儀よく詠んで、そのなかにちょっとだけ自分で工夫したところがあれば、それでよろしい。それ以上新しいことをするのは、お行儀が悪くていけないとされていました。だけども、そんなの嫌だ、もっと自分の気持ちを表現したい、というのが為兼のおなかのなかに、あったわけなんです。」(p. 97)

その革新派の京極為兼東宮時代の伏見天皇持明院統)と仲良くなった。

「伏見さんは、歌の才能のすばらしい方で、為世なんかがおしえてくれるような、伝統的な歌なんて、なんでもなく、普通の言葉みたいに、すぐ出てくる方だったんです。そうするとそれじゃつまんないわけです。もっと面白いことしたいと思っているところへ、やっぱりそういうふうに思っている為兼が来た。」(p. 97)

ということでこの二人と源具顕などがグループを組んで京極派ができ、玉葉集・風雅集が出来たのだそうです。なお岩佐先生がこの京極派に注目するようになったキッカケである永福門院は伏見天皇中宮です。
このころはまだ鎌倉時代なので、天皇に即位するためには鎌倉幕府に支持される必要がある。天皇になった伏見天皇は油断すると大覚寺統に政権が取られるかも知れない、ということで幕府への働きかけが必要になったのだけど、その仕事を頑張った為兼はやりすぎたのか讒言を受けて佐渡流罪、煽りを食って伏見天皇は退位させられる。伏見院はそのまま後伏見天皇院政していくのかと思いきや、2年半ほどで幕府から大覚寺統へ譲るよう言われ後二条天皇が即位。しかし体が弱くて8年ほどで亡くなり、後伏見院の弟の花園天皇が即位。
伏見院は在位中から勅撰集を作りたかったのだけど。為兼が流されたり自身が退位したりいろいろあって作れず。しかし持明院統花園天皇のうちに作ったのが「玉葉和歌集」。
為兼のライバルたる為世は後二条天皇の時代に勅撰集「新後撰和歌集」の撰者をしたため、伏見院企画の新しい勅撰集には関われないと為兼に言われ、訴訟騒ぎに。とはいえ結果的には為兼が一人で「玉葉和歌集」を作った。
しかし権力志向が強い為兼は、勅撰集を作ったことで誇って「まるで法皇のように、大変な権勢」の大騒ぎを引き起こしたとのことで、今度は土佐へ流罪…。やはり煽りを食った持明院統天皇の位をまた手放さなければならなくなって後醍醐天皇が即位することになったと。
後醍醐天皇元弘の乱を引き起こしたために廃位されて光厳天皇が即位することになったはずだが、南北朝時代に入ってゴタゴタが続く。ちょっと落ち着いた頃に光厳院が花園院監修の元で「風雅和歌集」を自撰したと。
その後の京極派はというと、京極為兼の家は絶えてしまい、また晩年の光厳院は歌を止めてしまったため縮小していったようです。しかし文学としては優れているため、戦前であっても一部の学者から評価を受けた、ので岩佐先生のような学者が生まれたわけですね。

中世女流日記文学のこと

女流日記文学と言えば「紫式部日記」「和泉式部日記」など、どうしても平安時代(中古)のものが代表格になっていまいます。そのため「それに比して中世の女流日記文学は、中古のものの真似をしているだけ」のような言説が大手を振っていたようで。しかしそれは時代における女性の立場の変化によるもので、中世の女流日記文学もすばらしいものだ、と岩佐先生は主張しています。

「『弁内侍(日記)』『中務内侍(日記)』は、内侍の日記でしょ?内侍というのは公務員なんです。宮廷のなかで、ちゃんとした役割を持ってて。忙しい職務です。天皇の身のまわりのお世話、天皇とお公卿さん達との間の公文書の取次ぎ、方々の神社のお祭へのお使い、三種の神器や宝物類の取扱いなんかね。事務的に熟練した、キャリアウーマンです。
 一方、紫式部とか清少納言は、中宮づきの女房で、公務員ではなくて、お里方から付けられたプライベートな女房なんです。それは全然違う。平安時代のプライベートな女房は、自分の御主人を盛り立てて、お后様方の中でも一番上の中宮様にしようと一生懸命なわけです。そこで、お公家さんたちと風流な歌のやり取り、恋愛遊戯のようなことをするのも、お勤めのうちなんです。人気を博して、自分の御主人の方へ人望を引き寄せようとね。
 だけども、中世になりますと、院政をするために、天皇が子供になってしまうんです。大人の天皇は邪魔ですから。そうすると、中宮様といったって、お飾りでね。あっても子供同士とか、ずっと年上とか。だからお后様同士の争いもないし、奉仕する女房達もお公家さん達と恋愛遊戯をして天皇の関心を引き付けようという必要が、なくなってしまうんです。」(p. 111)

「中世になって、内侍が日記を書き始める。それは、中宮様じゃなくて、天皇を盛り立てようという気持ちです。『弁内侍』のときは、後深草天皇は子供ですから、四つで天皇になっちゃうんですから、その内裏を楽しく盛り上げるというところに、弁内侍の日記があるわけです。だから、短くて、記録的で、文学じゃないと言うけど、そうじゃない。…短いということは、短くしか書けないんじゃなくて、長く書けば書けることを、ウィットに富んだ、エッセンスだけを、ほんの二三行、四五行で書く、そして歌で落ちをとる。そういう文体を弁内侍が創造したんです。」(p. 112)

「中世の女流日記が非難されること何にもない。時代が変わり、環境が変われば、文体が変わってくるのは、当たり前なんです。いつまでも、平安朝までの調子でいいわけはない。」(p. 113)

中世女流日記文学に手を付けるようになったのは京極派の研究資料としてだったとのこと。

「京極派の研究しようと思うと、資料が少ないんです。だけども、女流日記『弁内侍日記』『中務内侍日記』『竹むきが記』がある。
 『弁内侍日記』は、後深草の在位中のことですし、『中務内侍日記』は、東宮時代の伏見さんの処へ為兼が出仕して来た、その辺から始まって、伏見さんが天皇になってからのこともいろいろ書かれています。
 それから『竹むきが記』は光厳院の即位前後ですね。元弘の乱の後、後醍醐が復活してくるあたり、建武の中興ね。そのあと永福門院が亡くなるところもありますし。だから、この頃の女流日記は、京極派研究の資料として、とてもいいわけです。だけども、読んでいるうちにそれだけじゃない事がわかって来ました。」(pp. 109-110)

読後

京極派について、それどころか和歌の派閥なんて全く知らない私も、楽しく読むことができました。やはり聞き書きって読みやすいですよね。